日経サイエンス  2013年7月号

特集:量子の地平線

揺らぐ境界 非実在が動かす実在

谷村省吾(名古屋大学)

 「私はニューヨークメッツの大ファンだ。メッツの試合がある日は,何が何でもテレビを見なければならないと思う。なぜって? 私がテレビに向かって応援すれば,メッツが勝てる気がするからだ」(N. D. マーミン「量子のミステリー」より)

 

 マーミンのジンクスは本当か? 私が「家でテレビを見る」という行為が,遠く離れた野球場での出来事を変えるだろうか。常識で考えればあり得ない話だ。私が見ていようが見ていまいが,試合は同じように展開し,メッツの勝敗も変わらないはずである。

 

 1960年代,物理学者ベル(John Bell)がこの常識がミクロ世界で成り立つかどうかを調べる実験を考えた。それは「測定しなかった値は,もし測定していたら出てきたはずの値と同じ」という前提から導かれた,ある不等式が成り立つかどうかを調べる実験だ。もしこれが成り立てば,テレビで試合を見なくても,ボールの速さも打者の動きも,逐一テレビで見た場合と変わらないことになる。私の応援は役に立たない。

 

 しかしフランスの物理学者アスペ(Alain Aspect)が実際に光子を使って実験したところ,この不等式は破られた。ミクロな量子の世界では,測らなかった物理量が「測ったら出てきたはずの値」を持つと思ってはいけないのだ。 

 

 量子世界の奇妙な性質は一見,マクロな世界に暮らす我々には無縁に見える。だが,ミクロなものをたくさん集めればマクロになる。我々の世界は量子世界とつながっている。この世界で人が走り,投げたボールが飛んでいくのも,実は見えない量子世界の隠れた数学的な性質のおかげなのだ──。

 

 *2012年3月号「光子の逆説」の著者,谷村省吾先生が,量子力学を新たな切り口から解きほぐします。

 

新「揺らぐ境界 非実在が動かす実在」を読んで いろいろ疑問が湧いた人のための補足

 

【お知らせ】

45ページ右下「もっと知るには…」でご紹介した3本目の文献は,以下の論文の方が記事内容に沿っており適切でした。お詫びして差し替えます。

 

本誌掲載:

Experimental Tests of Realistic Local Theories via Bell’s Theorem.

A. Aspect, P. Grangier and G. Roger in Physical Review Letters, Vol. 47, pages 460–463, 1981.

 

正しくは:

Experimental Test of Bell’s Inequalities Using Time-Varying Analyzers.

A. Aspect, J. Dalibard and G. Roger in Physical Review Letters, Vol. 49, pages 1804-1807, 1982.

 

 

再録:別冊日経サイエンス199「量子の逆説」

著者

谷村省吾(たにむら・しょうご)

名古屋大学大学院情報科学研究科教授。アインシュタインとファインマンに憧れて物理学を志した。かつてアインシュタインが納得しなかった量子力学の根本問題から,らせん電子波を使った最新の実験まで,量子論の基礎と応用に幅広く関心を持っている。特技は絵を描くことで,記事中の図の原画はすべて本人によるものだが,「量子力学の方程式を絵にしたのは今回が初めて」という。

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