
ひとりひとりが自己の利益を追求した結果,全員が損をする──ゲーム理論における「囚人のジレンマ」は,そんな逆説的な状況を物語る。人間が合理的に行動する限り,この残念な結果は避けられない。だが実際の人間は必ずしもそうした合理的な行動せず,むしろ非合理的な協調行動を取る確率が高いことが,数々の心理学実験によって確認されている。
さらに奇妙なことに,こうした人間の不思議な意志決定は,量子力学の数学的な枠組みを使うとうまく説明できる。各自の選択が「量子もつれ」になっていれば,行動に協調性が生まれ,パラドックスは解消され,全員にとってより良い結果が得られる。
だが量子力学は本来,電子や光子などのミクロなものの理論だ。人間のようにマクロなものには適用できない。では,こうした心理実験の結果が量子力学の式で上手く説明できるのは,単なる偶然なのだろうか?
即断するのは早計だ。量子力学は,数学の枠組みとして見れば,ある状態を測定した時に何がどれくらいの確率で見えるかを語る確率論だ。しかもその確率は,測定する人がどんな情報を持っているかによって変わる。一方,囚人のジレンマの本質は「相手の選択がわからないまま自分の選択を決める」という点にあり,もし情報が何らかの形で得られれば,自分の選択は変化する。
情報の獲得や秘匿によって,確率的な予測が変化する物事は,世の中にいろいろありそうだ。得られた情報によって確率が変化する「主観的な確率論」は,様々な現象を広く記述し,量子力学や人間の意志決定はその一例なのかもしれない。
著者
筒井泉(つつい・いずみ)
高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所・准教授。専門は量子力学の基礎論,場の量子論。著書に『量子力学の反常識と素粒子の自由意志』(岩波科学ライブラリー)がある。趣味は図書館の古雑誌の埃をはらうことと,東京の下町を散策して往時を偲ぶこと,そして自分の自由意志のありかを探すこと。
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