日経サイエンス  2004年9月号

素顔の科学者たち

物理学の常識に挑む数学者 小澤正直

古田彩(日経サイエンス編集部)

 「ハイゼンベルクの不確定性原理は,破ることができる」。数学者,小澤正直は,80年間に亘って信じられてきた現代物理学の基本中の基本を静かに,だがきっぱりと否定する。

 

 1927年にウェルナー・ハイゼンベルクが提唱した不確定性原理は,新たな世界観を打ち立てた。観測という行為は,見られる側の状態を決定的に変えてしまう。だから物体の状態を完全に知るのは不可能で,見る前の状態は本質的に不確定だとの見方だ。ハイゼンベルクはこの新たな世界観を美しい式で表した。「物体の位置の測定誤差と測定で生じる運動量の乱れの積が,常に一定の値以上になる」という式である。物理の教科書の最初に載っているこの式の意味は「位置の測定誤差をゼロにしようとすると,運動量の乱れが最大になる。だから誤差ゼロの測定はできない」ということだと,学生たちは教わる。

 

 だが小澤は,ハイゼンベルクの式には重大な見落としがあるという。観測される側の物体がもともと備えている量子ゆらぎと,観測によって物体の状態に生じる乱れを混同しているのだ。両者をきちんと分けて考えれば,ハイゼンベルクが見落とした可能性が見えてくる。測定される物体の状態と,測定誤差や測定によって物体に生じる乱れとの間に相関があるような測定なら,「誤差ゼロ」の測定も可能になるのだ。ハイゼンベルクの式は,あらゆる観測について常に成り立つ式ではない。

 

 小澤はハイゼンベルクの式を修正し,どんな測定でも成り立つ一般式に書き直した。ハイゼンベルクの元の式に,測定する側とされる側との関係を表す2つの項を付け加えたものだ。測定誤差がゼロでも,ほかの2項の値をうまく選べば不等式を満たすことができ,誤差のゼロの観測が実現できる。

 

 小澤の提唱は当初ほとんど注目されなかったが,次第に風向きが変わり始めた。きっかけは量子情報科学の進展だ。量子力学の不確定性を活用した未来技術である量子コンピューターや量子暗号通信は,観測によって素子やデータの状態が変わることが,目的の計算や通信を行う上で重要な意味を持つ。その研究には,測定の限界を厳密な形で与える式が欠かせない。小澤のもとには,小澤の式を実験で検証したいという実験家が連絡してくるようになり,招待講演の依頼も舞いこむようになった。「我々は今まで,不確定性原理を本当の意味で理解していなかったようだ」と物理学者の細谷曉夫は瞠目する。

 

 将来,量子情報科学がどんな物理学教科書にも普通に載る日が来るかもしれない。その時最初のページには,ハイゼンベルクではなく小澤の不確定性原理の一般式が記されているはずだ。

 

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