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ピアノの音色はタッチで変わるか
楽器の中の物理学
吉川 茂 著
はじめに
・目次 ・著者紹介 ・本のトップページ

 よく言われるように、楽器は文化遺産であり、現在の楽器にはそれが多くの人々の手を経て徐々に変貌し、進化してきた跡が残っています。一方、そのように変貌を遂げてきた楽器でも、楽器の音を発生させている原理そのものは厳として不変です。バイオリンといえば、16世紀から17世紀にかけてのイタリアの小都市クレモナを想起しますが、バイオリンのような弦楽器の起源は非常に古く、かつ広範囲にわたっていたようです。あの有名なクレモナの名器に行き着くまでにはいろいろな変遷の歴史があったはずです。しかし、弓で弦を擦って音を出すという原理は古来不変のままです。また、トランペットの原型のようなものはすでにローマ時代にあったといわれています。しかし、その後どのようにトランペットが改良され、変貌しようと、それを演奏する人の唇を改良し、発音の原理まで変化させることは不可能に近いでしょう。すなわち、楽器は物理的に不変な発音原理の上で変貌し、発展してきたわけで、その不変な部分について楽器を愛好する人々の関心を高めることは十分に意義のあることと考えられます。

 ただし、この不変な核のまわりには楽器の進化だけにとどまらず、音楽様式や演奏技術の変化、さらには楽器の製作に応用された科学技術の発展など様々な変化が付随しています。したがって、不変な部分だけを科学的に研究し、説明しようとしても、それは楽器を研究し、説明したことにはならないでしょう。楽器というものは物理的側面のほかに、音楽的、歴史的、人間的側面をもった、ひとつの確固たる存在なのです。最終的には、「科学と芸術の対立」というパラダイムを考察することが、楽器を科学的に見ようとする立場の人にも、楽器を芸術的に生かそうとする立場の人にも、必要になるでしょう。

 本書ではそこまで立ち入ることはできませんが、楽器における「科学と芸術の接点」といえるようなテーマを設定して議論してみたいと考えています。そして、読者にはそういった議論を通して、楽器と楽器から出てくる音について知っていただきたいと思います。

 ここで、科学と芸術の中間的なものとして医学あるい医術を考えてみるのも面白いでしょう。楽器演奏の技術と手術の技術を比較するのは唐突かもしれませんが、両者の間には師弟関係に基づく技術の伝承という共通の性格があります。時代をさかのぼればさかのぼるほど、このような性格は明瞭になります。しかし、現代の医学の世界では技術的な師弟関係は不明瞭になってきているようです。その大きな原因として、医者が積極的に科学技術の成果を利用するようになったこと、そして医療機器が診察に不可欠になってきたことがあげられるでしょう。その背景にはもちろん、人間の病気を治すことに対する人類的な要請があります。したがって、医学にかかわる物理工学的な研究を必要とする市場も大きいといえます。ここで重要なことは、医者と科学的研究者とのチーム・ワークです。医者にとっては新たに開発しようとする医療機器の科学的な原理とそれがもたらす情報を関係づけて診察に役立てることが必要です。一方、科学者にとっては正しい診断の基になりうる科学的データの蓄積と科学的原理の実証が必要です。こういったことは医者と科学者の協同作業なくしては成就しません。お互いに、総合的な広い視野をもつことが医療機器の開発には不可欠です。

 現在のところ、芸術は科学から遠く離れていますが、新しい楽器を開発しようとすれば、音楽家、演奏家、メーカー、科学者などのチーム・ワークが必要になるでしょう。新しい楽器を開発しないまでも、楽器をより良く理解し、より深く楽しむためには、やはり総合的な広い視野に立つことが基本的に大切になってくるはずです。

 「ピアノの音色はタッチで変わるか?」というような問題提起は、読者に「科学と芸術の接点」についての具体的なイメージを与えるのに役立つと思われます。ピアノは誰にでも鳴らすことができます。猫にでも鳴らせますし、傘の先で叩いても音は出ます。第1章で述べますが、いわゆる「ピアニスト無用論」は、このようにピアノの音は誰にでも簡単に、しかも同様に出せるという点に基づいています。しかし、1つの音をピアノで出すという単純なことにも、多くの複雑な問題が絡んできます。

 たしかにピアノの音は誰にでも簡単に出せますが、誰が弾いても本当に同一の音が出るのだろうかといった疑問がすぐに現れるでしょう。そこで、同じ強さで鍵盤を弾いて、ピアノのハンマーが弦に当たるときの速さが同じになるようにする、という操作が前提条件として必要であるとか、その前にピアノの構造やハンマーが弦に当たるメカニズムなどについてもっと知っておく必要があるとかの意見が出てくるでしょう。科学的な研究には、こういったことは不可欠です。一方、ピアノの構造について良く知っている調律師の立場から推察しますと、上記の前提条件が成り立っていれば、誰が弾いても同一の音が出るように調律することが調律師の役割ではないかと思われます。AさんとBさんが弾いたとき、音色が違ったのでは調律とはいえないはずです。しかし、正しく調律されたピアノでも、ピアニストは技巧的なタッチによって音色に微妙な変化をつけられる、とピアニスト自身も、聴衆の多くも感じているようです。

 また、ピアニストにとって、ドとかラといった1つの音を出すことはほとんど意味がないと思われます。連続する音譜を様々な強さで弾くから音楽的な味わいが生まれてくるのであって、たった1つの音を考えてもおもしろくはないでしょう。しかし、同じドでも、それを四分音譜の連なりとして弾いたときと、八分音譜の連なりとして弾いたときでは2番目以降の音は同じではありません。そのようになるメカニズムをピアノはもっていて、前に弾いた音の残響がそれ以後に弾いた音にかぶさってくるからです。この残響特性、すなわち1つの弾いた音が徐々に弱くなって消え去るには時間がかかるという減衰特性は、ペダルを使わなければピアノに固有なはずです。ある強さで鍵盤を叩いてハンマーを動かし始めると、その時点でピアノは鍵盤を叩いた人から完全に自由になるからです。そうすると、連続する音譜であっても、弾く強さと間隔が同じであれば、演奏音の音色はタッチによって変化しないのではないかという推論が得られます。したがって、「ピアノの音色はタッチでかわるか?」という問いに対して、1つの音に関する答えが出れば、それはピアニストにとっても興味のわくところではないでしょうか。

 ここまでは、ピアノを弾く側からの考え方です。ところで、音色というのは人間の耳が音をとらえたときに脳で生じる感覚です。したがって、1つの音が与える音色は厳密には人間ひとりひとり異なっていると考えるべきです。それでも、このような個人個人の主観を客観的に評価することは可能です。多くの聴き手を集めて統計をとってみれば、平均的な傾向を知ることができます。しかし、問題がピアノの微妙な点に関することなので、客観的に評価することは容易ではありません。また、音色とはそもそも何なのかといった音響学における基本的な問題も無視するわけにはいきません。

このように、「ピアノの音色はタッチで変わるか?」という問題はいろいろな人々に関係する問題であって、その解決のためにはそれら多くの人々の参加が必要です。ピアニスト、調律師、ピアノメーカー、物理・音響・振動・機械などの研究者はもちろんのこと、ピアノを教えている人、習っている人、ピアノの木材に詳しい人、音の心理面を研究している人などの参加が理想的です。「科学と芸術との融合」が叫ばれ始めてから久しくなりますが、こういったキャッチフレーズを単なる幻想に終わらせないためには、「ピアノの音色はタッチで変わるか?」というような具体的問題へのアプローチが大切であると信じます。

本書の最終的なねらいは、楽器に関するこのような具体的で、総合的な問題への関心を高めることです。こうした関心が高まれば、楽器に関するテーマを議論する上での共通基盤あるいは土俵をより多くの人々がもてるようになるでしょう。あるいは逆に、適切な共通基盤がなければ、関心は高まらないともいえるでしょう。したがって、このような基盤あるいは土俵を形成できそうな事柄を提供したいと考えています。

管楽器はピアノと違って、音を出すことがそれほど簡単ではありません。とくに、音がどのようにして生まれてくるのかという発音のメカニズムについては自然科学の研究者の間でも統一的見解といったようなものはありません。それでも、最近の科学的研究によって発音メカニズムの基本的なところは解明されてきましたので、それを読者に理解していただくことが個性豊かな管楽器について議論する上での共通基盤を形成するために必要です。そのため、発音のメカニズムに関連した事柄を3種類の管楽器、すなわちフルート、尺八などのエアリード楽器、クラリネット、オーボエ、ひちりきなどのリード木管楽器、トランペット、ホルンなどの金管楽器について、それぞれ第2、第3、第4章で取り上げています。もちろん、こういった物理的な問題に限らず、管楽器の間での音色の相違、材質と音色との関係、プロの演奏家とアマチュアの相違などについても考察するつもりです。

物理学といっても、この本では音響学が主役を演じています。音響学という学問は、音の出し方、伝わり方、とらえ方、および感じ方に関する学問と定義できますが、学際的な性格が強いところに特徴があります。流体力学、熱力学、弾性論、建築学、医学、生理学、心理学、電気工学、通信工学、情報工学など多くの学問と境界領域を形成しています。したがって、楽器の音響学的な研究にはいろいろなアプローチがあります。ここでは、流体力学、振動論といった古典物理学的な研究方法から得られた成果について多く説明していますが、音の感じ方(聞こえ)に関する心理学的研究の成果なども取り入れています。

本書では、各章を独立した章として読めるようにしています。したがって、どの章から読んでいただいても構いません。しかし、管楽器が好きだという人は、第2章から第4章までの物理的な説明を少し我慢して読んでください。とくに第2章では、第3章と第4章での説明に必要な音響学的な基礎事項についても解説してあります。これらの管楽器に関する章はこれまでの教科書には書かれていない、ごく最近の研究成果に基づいています。第5章では、弦楽器の代表であるバイオリンを物理的な観点から取り上げていますが、新しい演奏技術の開発がバイオリンでは出せないと思われていた音を実現した事例を紹介しています。また、近年の環境破壊による楽器用木材の減少をカバーするための新材料の研究などについても言及しています。さらに楽器の物理について知りたい読者のために(というよりも、そのような読者の出現を願って)、巻末に、楽器の音響学に関する最近の出版物と本書をまとめるために参照した基本的な文献を紹介しています。

著者はソナーに関連する水中音響学および船体の振動・放射・散乱などに関連する構造音響学の研究を本務としており、本書はその本務の余暇に行った研究と勉学の結果をまとめたものです。したがって、本書は本務とは無関係ではありますが、水中での音に関する知見を楽器に応用することも、逆に楽器に関する知見を水中に応用することも物理的研究においては非常におもしろいことです。そこで、本書では空中と水中との違いを挿話的に紹介しています。

楽器は、人の生命を左右するものではありません。多くの人々がその魅力にとりつかれ、まれには演奏家の生命が奪われることはあります。しかし、楽器は人生を豊かにしてくれるものです。楽器を通して友人を得ることも、孤独を慰めることもできます。本書を通して、こんな楽器の見方、楽しみ方もあるのかということを知っていただき、さらに読者に自分自身の見方、楽しみ方を開拓していただければ、望外の喜びです。なんといっても、楽器は音を知るための宝庫なのですから。

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