日経サイエンス 

別冊207 心を探る 記憶と知覚の脳科学

別冊207心を探る:はじめに

日経サイエンス編集部

 別冊207「心を探る 記憶と知覚の脳科学」では,記憶に関わる最新研究を中心に,近年の脳科学と心理学の話題を取り上げる。

 「Chapter1 記憶の謎に迫る」は記憶の仕組みをさまざまな事例や研究から紹介する。「超記憶の人々」では,何十年も前のごく普通の日の記憶を自在に呼び起こせる人たちを通して,記憶の不思議に迫る。「記憶を調整する新生ニューロン」では記憶を区別する働きを担う新生ニューロンに焦点を当てる。外からは見えない記憶を脳波の検出によって探る技術が開発され,犯罪捜査での応用が検討されている(「脳指紋は語る」)。

 脳の記憶形成のメカニズムや記憶を書き換える仕組みについても研究が進んでいる(「Chapter2 記憶はコントロールできるか」)。薬や行動療法によって記憶をコントロールする方法は,心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療法として現実味をおびてきた(「恐怖の記憶を消す薬」)。「習慣を作る脳回路」は習慣の形成や刷り込みを制御する脳の仕組みを示す。一連の習慣行動は1つの脳活動ユニット(チャンク)として扱われ,脳が適切な状況と判断するとすぐに実行される。こうした研究から,良い習慣を身につけ,悪い習慣を絶つ手がかりが得られるかもしれない。「記憶の引き出し『コンセプト細胞』」では,神経細胞と記憶の形成メカニズムを取り上げる。単一のニューロンが特定の記憶(たとえば,ある俳優)を蓄えているという考え方に対し,近年では,1つのコンセプト(ある俳優の顔や姿,その俳優が演じた役柄や共演者といった一連の事柄)に関してニューロン集団が分散して記憶を担うとする考え方が受け入れられつつある。ニューロン集団の数については議論があるが,最近の神経科学は,脳の情報処理の仕組みから数千個程度を想定している。

 「Chapter3 知覚が生む能力」は人間の知覚の謎に迫るさまざまな記事を集めた。「代替現実で時間をワープ」では「代替現実(Substitutional Reality)システム」を用いた先進的な実験を紹介する。「センサー網が実現するESP」では最新の遠隔体験システムの開発を取り上げる。「助け合う知覚」は,視覚と聴覚など2つの異なる感覚の結びつきに目を向け,五感を融合させる脳の機能が周囲の情報を正確に取り込むのに役立つことを示す。「身体を超えてつながる脳」ではブレイン・マシン・インターフェースの第一人者ニコレリスが近未来へのビジョンを語る。

 「Chapter4 心の在処を求めて」の冒頭で取り上げるのは,脳損傷が原因で植物状態と診断されながら,機能的磁気共鳴画像法(fMRI)によって意識が確認され,対話の方法を工夫することで意思の疎通が可能になったという衝撃的な報告だ(「植物状態の人との対話」)。「脳とこころのスイッチ エピジェネティクス最前線」では,遺伝子の活性を変化させるエピジェネティックな変異と心の病気の関係を考える。

 「Chapter 5 後天的な天才」では,脳への刺激と傑出した能力の結びつきを扱う。後天性サヴァン症候群は事故や病気で脳に損傷を受けたのちに起こるまれな症状で,超記憶や複雑な計算を瞬時にこなすといった能力が突如発揮される(「ある日目覚めた天才 後天性サヴァン症候群」)。こうした脳の変化を人為的に安全に起こすことができれば,これまで治療が難しかった脳疾患の症状を改善できるかもしれない(「電気刺激で脳を改造」)。

 数千年にわたり,さまざまな宗教で精神修養の方法として取り入れられてきた瞑想だが,近年,一般の関心も高い(「Chapter6 瞑想する脳」)。「瞑想の脳科学」では脳研究の視点から瞑想が心身に与える有益な作用を考察。瞑想が脳の一部に生理学的な変化を引き起こすという発見は興味深い。マインドフルネスは瞑想法の1つで,いま現在の瞬間に集中することで,自分の意識状態に注目する力を高める効果がある(「マインドフルネスの効用」)。ストレスが原因となる病気の治療にも効果が期待されている。

 本書は月刊誌「日経サイエンス」に掲載された記事で編纂した。記事中の登場人物や著者の肩書きは特にことわりがない限り初出当時のものとした。

2015年8月
日経サイエンス編集部

再録:別冊日経サイエンス207「心を探る 記憶と知覚の脳科学」