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別冊日経サイエンス112
量子力学のパラドックス
日経サイエンス編集部 編
まえがき
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 20世紀物理学の偉大な成果の1つが量子力学だが,この理論は,私たちの日常世界を支配している「常識」から大きくかけ離れている。そしていまなお,現代物理学に不敵な挑戦を続けている。この別冊では,最新の研究成果を紹介するにとどまらず,パラドックスに満ち満ちた量子力学の“奇妙で深遠な世界”を伝えることに主眼をおいている。

 はじめの2つの論文は,量子力学の歴史を扱っている。量子力学の建設には多くの偉大な物理学者たちが参加しているが,その中で,ひときわ異彩を放っているのが英国の天才ディラックである。変換理論とディラック方程式で量子力学における輝かしい業績を残したディラックは,晩年,その独特の美学のゆえに,完全に主流から離れた異端の研究に没頭した。「物理の美学を追い求めたディラック」では,この孤高の天才の初期の研究から晩年までがコンパクトにまとめられている。つづく「ハイゼンベルク:不確定性原理と量子革命」では,不確定性原理の発見で有名なドイツの天才ハイゼンベルクの人生が,不確定性原理発見前夜に焦点を当てて語られている。

 さて,ハイゼンベルクの師匠であったボーアは,「相補性」という量子力学に特有の概念を提唱した。相補性と不確定性は関連しているのが普通だが,「物質と光の二重性」では,意外にも,不確定性が存在しないのに相補性が存在する事例が報告される。「実験が光を当てる量子力学の奇妙な世界」では,この分野の権威であるシモニーによって,隠れた変数の理論と量子力学の優劣を中心に最近の実験結果が報告されている。古典力学にはフーコーの振り子というのがあるが,その量子力学版がベリーによる「幾何学的位相と量子力学」で紹介されている。

 以上は純粋に量子力学の分野の研究であるが,量子力学は,周辺のさまざまな応用科学に,はかりしれないほど大きな影響を与えている。たとえば,乱流現象は研究者泣かせの複雑な現象だが,「超流動の中の乱流」では,1つのパラドックスが紹介される。量子的な乱流の方が古典的乱流よりもはるかに理解しやすいというのである。つづく「古典力学的極限の原子をつくる」では,原子のまわりの量子力学的な電子雲が古典的な惑星運動(?)へと移行する過程が探求される。学校の量子力学の授業では,プランク定数がゼロの極限で古典的な運動が出現すると教わるが,この論文では,大きい量子数と重ね合わせの相乗効果によってはじめて惑星のような運動が起きる事情がわかりやすく紹介されている。

 「量子カオス」では,最近活発に研究されるようになってきたカオス現象と量子力学の関係が追求される。この分野は文字通り混沌としており,これからの研究が楽しみな分野である。「量子暗号」では,量子的に考えると,どんな些細な盗聴行為でも系が乱されて,盗聴がばれてしまう,というたいへん面白いアイデアが紹介される。応用分野の最後として,「極低温での量子化学反応」という論文をピックアップした。古典的には,極低温での化学反応はほとんど起こらないが,量子力学では,トンネル効果によって反応が進んでしまう。最近のSF映画によく出てくる人間の冷凍保存も,量子力学的に考えると大きな問題をかかえていることになる。 なにしろ,トンネル効果による化学反応が進んで,DNA情報が破壊されてしまうのだから!

 このあたりから,量子力学の少し妖しい世界に踏み込むことにしよう。「光より速く伝わる現象」では,量子力学の非局所性と相対性理論との矛盾が考察される。トンネル効果で光速を超える現象は,不思議なことに因果律を破らない。これは,アインシュタインを悩ませた由緒ある問題であり,まさにパラドックスの名に値する。「タイムマシンの量子物理学」では,時間的に閉じた曲線が考察される。量子力学の多世界解釈まで飛び出して,読んで楽しい論文である。

 この別冊の最後の論文は,「もうひとつの量子力学」である。観測問題の権威で量子力学のわかりやすい啓蒙書も著している科学哲学者のアルバートによって,異端の物理学者ボームの量子力学が手際よくまとめられている。ボームの理論は,いわゆる隠れた変数をもっているため,ベルの定理によって否定されたと誤解している人も多いようだが,非局所的なボーム理論は量子力学のもう1つの定式化として立派に生き残っている。有名な二重スリットの実験にしても,「粒子か波か」と考えるのではなく,ボーム流に「粒子と波」と考えると直観的に理解できるのである。

 ここに集めた論文は,しっかりとした研究成果に基づいているが,もともと,量子力学の世界は,妖しく美しい魔物のすむ世界である。この機会に,そのような量子力学の醍醐味をじっくりと味わっていただければ幸いである。

1995年4月15日      日経サイエンス編集部

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