別冊日経サイエンス174
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知覚は幻 ラマチャンドランが語る錯覚の脳科学
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン、ダイアン・ロジャース=ラマチャンドラン 著
北岡明佳 監修
日経サイエンス編集部 訳 |
はじめに ユーモア満載で役にも立つ錯覚研究の物語集
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北岡明佳
本書は,認知神経科学者のラマチャンドラン夫妻がScientific American Mindに連載中の「Illusions」について,初号から最新号(2010年9・10月号)までに掲載された全30話を1冊にまとめたアンソロジーである(ただし第21話「3Dの錯覚」のみ,著者は視覚神経科学を専門とするS. L. マクニックとS. マルチネス=コンデ)。驚きの錯覚や一般人でも簡単にできる実験を紹介しつつ,私たちの視覚認識が脳でどのように組み立てられているのかを興味深く解説している。1話ごとに完結した内容だが,全体を通読すると認知科学の最前線を理解できる。「こんな錯覚があるんだ」という意外な話も数多く登場する。一般人はもとより,心理学や認知科学,神経科学を学ぶ学生向け入門書としても好適だ。
本書で取り扱われる錯覚の範囲は独特である。錯覚とは,実在する対象の「真の」性質とは異なる知覚のことであり,対象の性質の何を「真」とするかという認識しだいでどんな現象でも錯覚扱いにすることができる。一方,知覚の方は知的修正を受け付けない(第18話)。「それは目の錯覚だ」と教えてもらっても,錯視図形の見え方は変更できないということだ。
多くの場合(私の錯視研究もそうである)は,「基礎研究以外にはあまり役には立ちそうもないが十分おもしろい現象」を錯覚研究のテーマに選んでいる。ところが,ラマチャンドラン夫妻は身体図式というこれまで錯覚研究者が扱ってこなかった現象も錯覚の研究テーマに加え,臨床的な応用にまで言及しているのである(第2話,第8話,第16話,第23話)。錯覚研究が役に立つなんて!
普通の視覚の話題も十分網羅的である。古典的な錯視,反転図形,不可能図形,恒常性,透明視,ゲシュタルト法則,視覚的補完,両眼立体視,陰影からの立体視,顔知覚のピークシフト,運動視などが並べられていて,このまま視覚心理学の教科書として使えそうである。品揃えが不足しているとすれば色覚の話題である。それでも透明視(第19話)やマッカロー効果(第27話)のところに色の話は出てくる。
これらのコラムにはユーモアや冗談も満載である。たとえば,第22話「視覚失認 見えているのに,わからない」に「婦人と老婆のだまし絵」というよく知られた反転図形が出てくる。カリフォルニア大学サンディエゴ校の心理学者アンスティス(リバースファイなどの運動視研究で有名で人気者の視覚心理学者)にはその反転が起きず,若婦人の方しか見えないから,英ブリストル大学の心理学者グレゴリー(錯視・だまし絵研究の神様のような存在だったが,今年亡くなった)はこれをvisual agnosia(視覚失認)ならぬvisual hagnosia(視覚失老婆)と呼んだというのである。hagとは老婆という意味である。英語としてはただのダジャレ(専門用語入りのオヤジギャグといったところだ)であるが,日本語にはうまく訳せるものではない。ちょっと悔しい。
一方,「老婆は一日にして成らず」はいくら優秀な翻訳者でも英語に訳せまい。オヤジギャグ度が高いほど,他言語には翻訳できないとしたものである。と溜飲を下げて話を元に戻すと,アンスティス先生に反転図形が見えないはずがない!ということに気づいた。反転図形や不可能図形は古典的な錯視とは違って誰でも見えるものなのだ。
この話には裏がある。アンスティス先生は人柄のよい陽気な先生である。ついでに,妙齢のご婦人に目がない(とされている)。つまり,故グレゴリー先生の高級オヤジギャグは,アンスティス先生は若い女性が大好きという本人公認のジョークを暗示したユーモアなのである(楽屋落ちだなあ)。一応言い訳しておくと,概して欧米人男性は相手の年齢にかかわらず女性に対して等しく親切で紳士的であり,彼らも例に漏れない。上記のエピソードはあくまで知的な遊びである(それでも不愉快に思われた方には申し訳ない)。
ところで,日本はよい国であるとつくづく思う。本書を日本語で読めるということはすばらしいことなのだ。このような良書を母国語で読めない国は少なくない。英語から翻訳するだけならどこの国でもできるだろうと思うのは誤りで,本書を訳出して出版しようという企画力のある会社(本書の場合は日経サイエンス)があって,内容を読んで適切な助言ができる監修者(本書の場合は私)がいて,出版された書籍を購入する読者(本書の場合は皆様)がいて,はじめて実現できるのである。誰にというわけではないが感謝したい。
著者 Vilayanur S. Ramachandran / Diane Rogers-Ramachandran
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン/ダイアン・ロジャース=ラマチャンドラン 心理学・神経科学者。ともにカリフォルニア大学サンディエゴ校の神経科学研究所(Center for Brain and Cognition)に在職。ヴィラヤヌルは同研究所の所長で,カリフォルニア大学サンディエゴ校心理学科の教授。著書に"Phantoms in the Brain: Probing the Mysteries of the Human Mind"(サンドラ・ブレクスリーとの共著,邦訳は『脳のなかの幽霊』,角川21世紀叢書)などがある。夫妻はScientific American Mindの編集顧問も務めている。
監修者 北岡明佳
きたおか・あきよし 立命館大学文学部心理学専攻教授。専門は知覚心理学。日本における錯視研究の第一人者として知られる。『トリック・アイズ』(カンゼン),『だまされる視覚 錯視の楽しみ方』(化学同人),『錯視完全図解―脳はなぜだまされるのか?』(ニュートンプレス),『錯視入門』(朝倉書店)など著書多数。2001年,日経サイエンスに「錯視のデザイン学」を連載した。
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