日経サイエンス  2009年8月号

海を渡る日本脳炎ウイルス

古田彩(編集部) 森田公一(長崎大学熱帯医学研究所)

 6月から日本脳炎の新ワクチン出荷が始まった。2005年に政府が副反応を理由に接種勧奨を中止して以来,4年にわたって事実上止まっていたワクチン接種が再開に向けて動き出した。日本脳炎は患者の2~3割が死亡する重い病気だ。ウイルスに感染した豚の血を吸った蚊に刺されることで感染する。専門家は新ワクチンで勧奨を再開するよう求めているが,実際の患者は極めて数少なく,接種に反対する声も残っている。

 

 問題は患者がなぜ減ったのか,その理由がはっきりしていないことだ。ワクチンが効果を上げたのか,生活様式の変化で蚊に刺される機会が減ったのか,それとも日本のウイルスの病原性が弱くなり感染しても発病しなくなったのか。

 

 長崎大学教授の森田公一らは最近,こうした議論に一石を投じる研究結果を発表した。日本や中国,ベトナムなどで分離されたウイルスの遺伝子情報を解析し,日本の豚や蚊の間で蔓延しているウイルスが,しばしばアジアから渡ってきていることを発見したのだ。アジアで毎年3~5万人の患者を発生しているウイルスが,1年から数年遅れで日本に入ってきている。

 

 ウイルスはどうやって海を越えるのだろうか。確証はないが,ウイルスに感染した蚊がアジア上空を吹く強い南西風に飛ばされて飛んでくるとの見方が有力だ。稲に付くウンカがこの方法で中国南部から渡ってくることが判明しており,農業・食品産業技術総合研究機構などによる飛来予測は,日本脳炎ウイルスの伝搬状況を矛盾なく説明している。

 

 日本では,このウイルスは夏に流行して冬にいったん消え,春になると再び現れる。何かの動物の体内に潜んで越冬し,春になると再び出てくるという「越冬説」と,冬の間は日本から消え,春に海外からやってくるという「飛来説」の2つの仮説があり,1960年代から両方の証拠を求めて研究が続いてきた。森田らの研究は「飛来説」を裏付るものだが,同時に日本に土着して越冬しているウイルスもいることを示唆している。飛来したウイルスの一部が日本に定住した可能性がある。

 

 ただ,日本のウイルスの相当部分が,今も患者を出し続けている東南アジアから来ていることは確かだ。病原性が弱くなったとは考えにくい。また,九州や中国,四国の県の多くでは8割以上の豚がウイルスに感染しており,潜在的な脅威は消えていない。

 

 日本脳炎は,60年代には毎年千人以上の患者が出るなど猛威を振るったが,現在は 現在は年間10人以下に減少している。だが,接種勧奨を中止した影響で,現在6歳以下の子供は,ほとんど日本脳炎に対する抗体を持っていない。このまま抗体を持たずに成長し,蚊が活動する夜間の外出が増えたらどうなるか,誰にも予想はつかない。新ワクチンの供給量は限られており,未接種者の解消にはしばらく時間がかかりそうだ。

 

 

再録:別冊日経サイエンス188 「感染症 新たな闘いに向けて」

協力:森田公一 (もりた・こういち)
長崎大学熱帯医学研究所病原体解析部門教授。医学博士。長崎大学大学院医学研究科修了後,ニュージャージー医科歯科大学助手,世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局感染症対策課課長などを経て,2001年から現職。専門は熱帯性ウイルスで,特に蚊が媒介する日本脳炎,デング出血熱,西ナイル熱などの疫学と予防,診断・治療について研究している。

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