日経サイエンス  2007年10月号

わかり始めた記憶の暗号

J. Z. チェン(ボストン大学)

 大地震を経験した人なら誰でもその鮮明な記憶があるだろう。地面の揺れや大気の音,棚から落下した皿や小物──私たちはこのような出来事の詳細を明確に何年にもわたって覚えている。なぜなら私たちの脳は突出した出来事から重要な情報を抽出し,その知識を使って同じような状況に将来対応できるよう進化してきたからだ。過去の経験から学習する能力のおかげで,すべての動物は複雑で常に変化し続ける世界に適応できるようになった。

 

 この数十年,脳が記憶を形成するしくみの解明に多くの研究者が取り組んできた。私は共同研究者とともに,自由に動いているマウスの200を超えるニューロンの活動を同時に記録する技術と強力な数学的解析法を組み合わせた新たな実験で「記憶コード」を発見した。経験から重要な情報を引き出して記憶に変換するための基本的メカニズムがこの記憶コードだと考えられる。

 

 記憶のコードに関与するニューロンの集団は,日常の経験から“一般的概念”を抽出する働きもしており,これによって経験が知識と思考に変換されるらしい。脳はあるルールに従ってニューロンの電気信号を知覚や記憶,知識,そして究極的には行動に変換している。

 

 記憶コードは脳と機械をつなぐより一体的なインターフェースの開発や,新世代の賢いコンピューターやロボットの設計にも利用できるだろう。もしかしたら,“心の暗号表”を編さんして,ニューロンの活性をモニターすることで誰かの知識や思考を解読できるようになるかもしれない。

著者

Joe Z. Tsien(銭卓)

ボストン大学で薬学・生物医学工学の教授を務め,システム神経生物学センターの所長でもある。学習と記憶に関する研究に大きく貢献した。さらに,マウスで特定の時間に特定の場所で遺伝子をノックアウトする技術を開発した。1999年プリンストン大学で普通の実験用マウスよりも物事を速く学習し長く記憶する天才マウス・ドギーを生み出し,脚光を浴びた。2004年にボストン大学に移り,最近では母校の華東師範大学に脳機能ゲノム上海研究所を設立した。

原題名

The Memory Code(SCIENTIFIC AMERICAN July 2007)

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