日経サイエンス  2004年6月号

ドラッグに翻弄される脳

E.J. ネスラー(テキサス大学) R. C. マレンカ(スタンフォード大学)

 注射針や白い粉。多くの薬物常習者は,薬物そのものの映像や薬物を連想させる道具を見ただけで,薬がもたらす快楽を思い起こして身震いする。そして,薬物注射は本当の快感をもたらしてくれる。高揚感,澄み切った明るさ,幻覚,安心感,宇宙の中心にいるような感覚。短時間のうちに,すべてが心地よくなる。ヘロインやコカイン,ウイスキー,覚醒剤──。しかし,これらが繰り返し体内に入るとそれ以上の変化を引き起こす。

 

 やがて以前の量では幸福感が得られなくなる。それどころか,ただ普通の状態でいるために一服が必要となる。さもなければ,抑うつ状態になり,肉体的に病んでしまうことさえある。こうして,強迫的な薬物常習者が生まれてしまう。この段階で依存症に陥っており,薬物使用に対して抑制が利かなくなる。薬物を使い始めたころのスリルはとうになくなり,健康は蝕まれ,薬物を買うために金も失い,家族や友人との人間関係までもが壊れた後でさえ,患者は薬を求めて強い渇望感に悩まされる。

 

 薬物がもたらす幸福感はすべて,これらの化学物質が最終的に「脳の報酬系」を高める働きをするからだという事実が以前から知られていた。脳の報酬系とは,神経細胞(ニューロン)が作る複雑な神経回路の1つで,食事やセックスなどをすると興奮する。つまり,私たちが生き延びて遺伝子を子孫に伝えるのに不可欠な行動をすると,快感を覚えるように進化した回路だ。少なくとも初めのうちは,この系を刺激することは私たちに快感をもたらし,そうした快楽をもたらしてくれる行動なら,どんな行動でも反復するよう私たちは駆り立てられる。

 

 しかし,慢性的に薬物を使用すると,報酬系のニューロンの構造や機能に変化が生じ,その変化は最後の注射の後,数週間から数カ月,あるいは数年も持続してしまうことが最近の研究からわかってきた。こうした順応の結果,あいにくなことに,薬物を繰り返し乱用しても快楽が得にくくなり,渇望感がエスカレートしていく。薬物常習者が家庭や職場でトラブルを起こしながら,破滅の道への悪循環に陥るのはこのためだ。しかし,薬物が引き起こす脳での変化についての理解が深まり,乱用を止める良い方策が示されるようになってきた。薬物の虜になった人たちにも,脳をもとに戻し,人生をやり直す道が開けてきそうだ。

 

 

再録:別冊日経サイエンス224「最新科学が解き明かす脳と心」

 

著者

Eric J. Nestler / Robert C. Malenka

2人は精神科医としての教育を受け,薬物依存の生物学的基礎を学んだ。ネスラーはテキサス大学ダラス校サウスウエスタン医学センターの精神科教授で,M.D.とPh.D.をエール大学で取得した。彼は1998年に米国医学協会会員に選任された。マレンカは,スタンフォード大学医学部の精神医学・行動科学教授で,スタンフォード大学でM.D.とPh.D.を取得後,10年間カリフォルニア大学サンフランシスコ校で過ごし,1999年にスタンフォード大学医学部の一員になった。カリフォルニア大学では薬物依存神経生物学センターの所長を務めた。ネスラーとマレンカは,現ハーバード大学のハイマン(StevenE. Hyman)とともに教科書『Molecular Basis of Neuro-pharmacology (McGraw-Hill,2001)』を出版した。

原題名

The Addicted Brain(SCIENTIFIC AMERICAN March 2004)

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