日経サイエンス  2002年6月号

児童虐待が脳に残す傷

M. H. タイチャー(ハーバード大学医学部)

1994年,ボストン警察はロクスベリーにあるアパートの不潔な一室に閉じこめられていた4歳の男の子を助け出した。この子はその部屋で恐ろしく惨めな生活を送っていて,栄養失調になっていた。かわいそうに,その小さな手はひどい火傷を負っていた。薬物濫用者だった母親が,我が子の手を熱い蒸気の吹き出し口に押しつけたのだ。言いつけに背いて,母親の男友達の食べ物をつまみ食いした罰だったという。しかも,何の手当てもされていなかった。

 

 このむごい話は,すぐに米国でトップニュースになった。男の子は養育施設に預けられ,火傷治療のために皮膚移植が行われた。彼の身体的な傷は治った。しかし,発達過程の心に負った傷は決して癒されないことが,最近の研究で明らかになった。

 

 子ども時代に身体的・性的・心理的虐待を受けると,大きくなってからも精神的トラブルを抱える場合がある。これまでの研究から,虐待と精神的トラブルの間には強い関連があるとわかってきた。これは驚くにはあたらないだろう。

 

 しかし,1990年代初期には,情緒的・社会的なトラブルはおもに心理的なものから生じると専門家は信じていた。児童虐待の被害者は,精神的な防御メカニズムが強く働きすぎ,大人になってから敗北感を感じやすくなったりする。精神的・社会的な発達が抑えられて,大人になっても“傷ついた子ども”のままになってしまうこともある。そのように考えられてきた。

 

 虐待によるダメージは基本的には“ソフトウエア”の問題とされてきた。治療すれば再プログラムが可能で,つらい体験に打ち克つよう患者を支えれば,治せる傷ととらえられてきた。

 

 私たちマサチューセッツ州ベルモントにあるマクリーン病院とハーバード大学の共同研究グループは,虐待の影響を研究して,これとは少し違う結果を得た。子どもの脳は身体的な経験を通して発達していく。この決定的に重要な時期に虐待を受けると,厳しいストレスの衝撃が脳の構造や機能に消すことのできない傷を刻みつけてしまう。いわば“ハードウエア”の傷だ。虐待を受けると,子どもの脳では分子レベルの神経生物学的な反応がいくつか起きる。これが,神経の発達に不可逆的な影響を及ぼしてしまうらしい。

 

 

再録:別冊日経サイエンス193 心の成長と脳科学

著者

Martin H. Teicher

ハーバード大学医学部精神科の準教授で,マサチューセッツ州ベルモントにあるマクリーン病院の発達生物精神医学研究プログラムの責任者。マクリーン病院のメイルマン研究センター発達精神薬理学部門のチーフでもある。

原題名

Scars That Won’t Heal : The Neurobiology of Child Abuse(SCIENTIFIC AMERICAN March 2002)

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