日経サイエンス  2001年10月号

特集:生物に学ぶナノモーター

カオスから生体分子モーターへ

R.D. アツミアン(メイン大学)

 それまで常識と思われていたことが,技術の進歩によって,ただの思い込みに過ぎなかったと思い知らされることがある。物理・化学・生物の知恵を総動員して分子サイズのモーターやポンプを作るという,今一番注目を集めている分野で,過去の常識が通用しなくなっている。

 

 分子スケールのモーターには回転子も接極子もなく,エンジン周りの部品にあたるものもない。それどころか,もっと奇妙な特徴がある。通常のモーターでは動きを生み出すためにエネルギーを使うが,分子サイズの小さなモーターでは動きを止めるためにエネルギーを使うのだ。まるで火星人のモーターのようだが,実は私たちの地球上にすでにある。むしろ,ミクロな世界ではごくありふれたモーターで,あらゆる細胞内での運動を支えている。

 

 日常目にする機械に慣らされた私たちには,ミクロな世界で起きていることはかなり異様に映るだろう。ミクロの世界は熱揺らぎや量子揺らぎが支配している世界だ。分子が進もうとしても,大嵐の中を歩くようなもので,四方八方から無数の分子がぶつかってくる。その力に比べたら,分子自身が進もうとする力は微々たるものに過ぎない。しかしそうした環境にあっても,細胞は物質を輸送し,イオンを運び,タンパク質を合成し,細胞運動をしつつ,うまく働いている。細胞は無秩序の中から秩序を取り出しているのだ。

 

 その仕組みがこの数年でようやくわかり始めてきた。基本となっているのはランダムなノイズをうまく利用するメカニズムである。「ブラウン運動を使ったラチェット(爪車)の原理」とでも名付けておこうか。不要と思われていたノイズを活用すること,つまりノイズの整流を行う仕組みだ。この原理は,信号を伝える経路のノイズが大きくなればなるほど信号を伝えやすくなる,という確率共鳴に似ている。

著者

R. Dean Astumian

 メイン大学物理学教授。最近までシカゴ大学で生物物理学を教えていた。分子モーターやポンプについて,これまで50本以上の論文を執筆し,1987年には生物電気化学学会よりガルバーニ賞を受賞。アメリカ物理学会会員。細胞のシグナル伝達の統計力学についても関心を抱いている。ピアノ演奏に熱中する一方で,家族とともにメインの自然散策を楽しんでいる。

原題名

Making Molecules into Motors(SCIENTIFIC AMERICAN July 2001)