日経サイエンス  2001年5月号

電子顕微鏡で量子の世界を見る

外村彰

  緑豊かな比企丘陵に囲まれた埼玉県鳩山町の日立製作所基礎研究所に2000年春,高さ7m,総重量40トンという巨大な顕微鏡が完成した。尖った針の先から放たれる高輝度の電子線を利用して,ミクロの物体を観察する「100万ボルト(1MV)ホログラフィー電子顕微鏡」だ。結晶中の原子は最小2Å(1Åは100億分の1m)というきわめて微小な間隔で並んでいるが,この装置は0.5Å以下の精度で結晶格子を観察できる。

 

 装置の大きさや電圧の高さでは大阪大学の3.5MV電子顕微鏡が世界一だが,私たちが開発した装置は分解能でこれを上回り,世界最高記録を達成した。原子の大きさの1/100という短い波長をもつ電子線を利用して,謎に満ちた量子の世界が解き明かされようとしている。

 

 光学顕微鏡が発明されたとき,人類はミクロの世界をのぞく道具を手にし,その後,材料や生物組織の研究が急進展した。ただ,透明な試料はそのままでは観察できない。そこで,染色法や光の位相(波の山や谷)の差を利用する方法が考案され,透明な試料でも詳しく観察できるようになった。

 

 電子顕微鏡の性能向上もこれとよく似た軌跡をたどっている。透過型電子顕微鏡などの開発により分解能は原子レベルにまで到達し,光学顕微鏡では見えなかったウイルスや原子といった微小な物体を簡単に観察できるようになった。しかし,分解能をいくら高めても,その姿をとらえられない現象が数多く存在する。その中には,量子力学で理論的に予想されていながら,実際に確かめるのは不可能とされている現象も多い。

 

 近年,輝度が高く位相のそろった電子線がもつ波の性質(波動性)を利用して,巧みな手法で量子の世界をのぞく技術の開発が急進展している。私が取り組んできた電子線ホログラフィーはその代表だ。こうした技術が一段と高度になれば,これまで目にできなかった量子の世界を可視化したり,頭の中でしかできなかった“思考実験”を目の前で行えるようになり,私たちの世界像を広げるかもしれない。

著者

外村彰(とのむら・あきら)

日立製作所フェロー。科学技術振興事業団戦略的基礎研究推進事業に所属。東京工業大学物質科学創造専攻および東洋大学工学部の客員教授を併任。1965年,東京大学理学部を卒業後,日立製作所に入社。高性能の電子顕微鏡を開発し,電子線ホログラフィーを世界に先駆けて実用化した。アハラノフ・ボーム効果の検証実験に成功したことで世界的に知られる。1991年に日本学士院恩賜賞,1999年にフランクリン・メダルを受賞。1942年,東京生まれ。