きょうの日経サイエンス

2013年10月8日

2013年ノーベル物理学賞 ヒッグス機構の提唱者に

 2013年のノーベル物理学賞は,力を伝える粒子に質量を与えるメカニズム「ヒッグス機構」の理論を提唱したベルギー・ブリュッセル自由大学名誉教授のアングレール博士(Francois Englert)と英エディンバラ大学名誉教授のヒッグス博士(Peter Higgs)に授与されることになりました。

Nobel20131008

 

 理論が提唱されたのは1964年ですが,ヒッグス機構によって存在が予言された「ヒッグス粒子」はこれまで数多くの実験によっても検出されていませんでした。それが2012年7月,スイス・ジュネーブ郊外の欧州合同原子核研究機構(CERN)にある世界最強の加速器LHCを用いた2つの国際共同実験,ATLAS実験とCMS実験で,ヒッグス粒子とみられる新粒子が発見されました。ここに示す写真は,同年7月4日にCERNで行われたヒッグス粒子とみられる新粒子発見の発表に招かれたアングレール博士(手前左)とヒッグス博士(同右)です(写真はCERN提供)。

 

 その後,さらにLHCでの実験が進み,今年3月,新粒子がヒッグス粒子であることが確定,ヒッグス機構が検証されたことから今回の受賞となりました。日本はATLAS実験の中心メンバー国で,ヒッグス粒子の発見に大きな貢献を果たしました。「研究の重要性が評価されて今回のスピード受賞となった」と実験グループの浅井祥仁東京大学教授は話しています。

 

 ヒッグス機構のおおもとのアイデアは米シカゴ大学名誉教授の南部陽一郎博士が1959年に提唱した「対称性の自発的破れ」という概念です。南部博士は,陽子や中性子など物質を構成する粒子に質量を与えるメカニズムとして,この概念を用いました。

 

 アングレール博士と共同研究者でブリュッセル自由大学の同僚のブラウト博士(Robert Brout,2011年死去)は,この南部博士の研究に刺激を受け,力を伝える粒子(ゲージ粒子と総称されます)に対称性の自発的破れのメカニズムを適用すると,無理なく質量を与えられることを示しました。約2カ月遅れてヒッグス博士も独立に同様の研究成果を発表しました。それらがいわゆるヒッグス機構です。ノーベル賞の記者発表では3人の名前の頭文字を取ってBEH-MECHANISMと表記しています。

 

 ただ1964年に発表されたアングレール博士とブラウト博士の共著論文も,ヒッグス博士の論文も抽象度が高い内容で,実際に素粒子に働く力を担うゲージ粒子に質量を与えるところまでは説明できていませんでした。1967年,それを最初に成し遂げたのが米テキサス大学オースティン校教授のワインバーグ博士(Steven Weinberg)で「電弱統一理論」と呼ばれるものです。

 

 電弱統一理論では,原子核内部の狭い範囲で働き,ベータ崩壊という放射性崩壊などを起こす「弱い力」を担う3つの素粒子が持つ質量がヒッグス機構によって説明されています。また宇宙誕生直後の超高エネルギー状態では弱い力と電磁気力は「電弱力」という1つの力であったことも説明されます。LHCを用いたATLAS実験とCMS実験で発見されたヒッグス粒子は,いわば“電弱統一理論版”のヒッグス機構によって存在が予言されたヒッグス粒子になります。

 

 ヒッグス機構で中心的な役割を担うのはヒッグス場という一種の場です。宇宙が誕生した時に,ヒッグス場もできましたが,最初のうちは素粒子に質量を与えていませんでした。つまりすべての素粒子の質量はゼロで,素粒子は光の速さで動き回っていました。その後,宇宙が冷えていくと,ヒッグス場に水が氷になるような状態の変化(いわゆる場の凝縮)が起きました(そうした変化を起こすメカニズムが対称性の自発的破れです)。その結果,弱い力を担う素粒子とヒッグス場が強く結びついて,光より遅い速度でしか動けなくなりました。これを私たちは質量を持っている状態として認識しているわけです。

 

 また電磁場の揺らぎを,私たちは光子として認識していますが,ヒッグス場の揺らぎにも,それに対応した粒子が存在すると考えられます。それがヒッグス粒子です。ヒッグス粒子の物理的特性は電弱統一理論から予言されており,そうした特性を満たす新粒子の存在が確認されれば,ヒッグス場,ひいてはヒッグス機構の実在が確認できることから,その探索が続けられてきたわけです。

 ヒッグス粒子は「万物に質量を与える素粒子」ともいわれますが,ここまで見るとわかるように,ヒッグス機構によって質量が与えられるのは力を伝えるゲージ粒子,それも弱い力を担う粒子に限定されます(ちなみに電磁気力を担う光子と,原子核内部で働く別種の力である「強い力」を担う素粒子グルーオンは質量がゼロ。重力を担う重力子はまだ直接的な観測には成功していませんが,これも質量ゼロとされています)。

 

 では陽子や中性子を構成する素粒子クォークや電子など物質を構成する素粒子の質量はどうやって与えられるのでしょう? 現在の素粒子物理学の基本的枠組みである「標準モデル」では,こうした物質粒子もヒッグス粒子と相互作用することで質量を与えられるとしています。いわゆる「湯川相互作用」といわれるメカニズムで,ヒッグス機構とは別種のものですが,その理論的な解明は進んでいません。ただLHC実験の結果をみると,発見されたヒッグス粒子がヒッグス機構とともに,湯川相互作用も担っていることが示唆されています。

 

 ヒッグス機構は素粒子物理学の理論ですが,物質の振る舞いを説明する物性物理学とも深いつながりがあります。物質を極低温まで冷やすと電気抵抗がゼロになり,電流が永遠に流れ続ける超電導という現象が知られています。1957年,南部博士が「対称性の自発的破れ」を発想する契機となったのが,超電導を説明するBCS理論でした。当時,同理論は提唱された直後で,そのあまりの不可解さに南部博士は衝撃を受け,その背景にある物理について深く考えをめぐらせ,対称性の自発的破れというまったく新しい概念に行き着いたのです。

 

 ちなみに超電導現象はオランダの物理学者,オンネス(Heike Kamerlingh Onnes)が1911年に発見し,オンネスは1913年にノーベル賞を受賞しました。BCS理論を1957年に提唱したバーディーン(John Bardeen)ら3人の研究者は1972年にノーベル物理学賞を受賞しています。さらに南部博士は対称性の自発的破れの業績で2008年に,電弱統一理論を提唱したワインバーグ博士ら3人は1979年にそれぞれノーベル物理学賞を受賞しています。またアングレール博士やヒッグス博士に先立ってヒッグス機構が存在する可能性を示唆したアンダーソン博士(Phlip W. Anderson)は別の物性理論の研究業績で1977年に同賞を受賞しています。

 (編集部・中島林彦)


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