きょうの日経サイエンス

2012年3月11日

悪夢の日々

 「え! 原発の建屋が吹き飛んじゃってるんじゃないの!?」

 

 東日本大震災が発生した翌日の昨年3月12日夕刻,たまたま日本経済新聞本社(弊誌の親会社)に立ち寄ったときのことでした。大地震の混乱の中,次号(3月25日発売号)の編集作業が何とか終わり,本社に寄っても疲れ果てていて椅子に座り込むばかりだったのですが,こんな声が背後でしたので,「そんなばかな・・・ 何かの見間違いだろう」と思いつつ,のろのろとテレビ画面に目を向けました。

 

 福島第1原子力発電所を遠望する実況映像が流れていたのですが,すでに見慣れていた水色の四角い箱のような原子炉建屋の様子が明らかに少し前と違います。建物の上半分が骨組みしか残っていないではありませんか! テレビのナレーションでは,まだその事実が伝えられず,被災地の状況報告か何かの話が延々と続いていて,画面だけが恐るべき事態が起きたことを物語っていました。そんな白昼夢のような時間が少し続いた後は,もうテレビも,私が座り込んでいた新聞社も大騒ぎ・・・

 

 前夜来,一面が火の海となった気仙沼の大火災など津波の大変な被害状況の報告の合間に,福島第1原発の原子炉の冷却がなかなかうまくいっていないことが報じられていました。しかし,原発には何重もの安全システムがあるのだから何とか落ち着くだろうと思っていました。堅牢無比ともいえる原発の建屋が爆発を起こすなんて,それが日本で起きるなんて,悪い夢以外の何物でもありません。その後の数日間,毎日ばたばたと走り回っていたはずなのですが,1年近くが過ぎた今,振り返ると,詳しいことはあまり覚えておらず,悪夢がずっと続いたようなぼんやりした印象のみが残っています。

 

 ただ,1号機に続いて3号機で水素爆発が起きた3月14日の深夜,東京電力本店での記者会見のテレビ中継はよく覚えています。当時は1号機と3号機に続いて2号機の冷却機能が失われ,2号機原子炉は燃料棒がほとんど露出に近い状態になっていました。炉を減圧し消防車で注水を試みるのですが,炉内の圧力は下がったと思うとすぐ上がって思うように送水できず,炉の水位はなかなか回復しません。すでに炉心溶融が始まっているような状況でした(後の解析によると,その時には実際に炉心溶融が起きていました)。

 

 同日深夜の記者会見で,東京電力の担当者は恐るべき事態が起きていることを示す2号機の炉の水位データを感情を交えずに(しかし「ダウンスケール」などという専門用語は交えて)淡々と報告。要領を得ない発言に苛立った記者側が質問をすると,東電担当者は再び恐るべき事実を示すデータを事務的に繰り返す。そして記者側が再度質問すると,東電が・・・ そうした問答が果てしもなく繰り返されていました。その間も,露出した燃料棒が融け,どろどろになった超高温の核燃料が原子炉から漏洩しているのではないかと思うと,叫び声を上げたくても上げられないというか,胃袋に重い石がぎゅう詰めにされて動きたくとも動けないというか,地震で本やら何やらが床中に散らばった中,ひとり毛布にくるまり金縛りのようになってテレビを見つめていて冷や汗がだらだら出てきたのをよく覚えています。『ねじ式』(つげ義春)に出てくる悪夢のような掛け合いを現実世界で目にしようとは・・・ 

 

 翌3月15日朝には4号機の建屋も爆発,さらに深刻なことに2号機の格納容器も損傷したとみられています。放射性物質の放出量が急増した同日午前,高濃度の放射性物質を含む空気の塊「放射能雲」が,折からの北風にのって首都圏上空に襲来したようです。東京に住む私たちは,国や研究機関などからその事実を知らされることもなく暮らしていたのですが(悪夢そのもの),幸いにも雨が降らなかったため,放射性物質の地上への大規模な降下は起きませんでした。結局,原子炉3基の炉心溶融という専門家すら予想もしない事態になり,膨大な量の放射性物質が大気へ,海へと流れ出したのでした。成田空港は帰国を急ぐ(日本から逃げ出す)外国人であふれ,パニック映画を地でいくような光景が繰り広げられました。

 

 弊誌は大地震発生翌月の4月25日発売号で東日本大震災の大特集を組むことになり準備を始めました。取材に訪ねた産業技術総合研究所(茨城県つくば市)は震度6の揺れに襲われ,建物の一部は立ち入りが制限されている状態でした。予想外のマグニチュード9といわれている今回の巨大地震ですが,実は警鐘が鳴らされていたという話をじっくり聞きました。取材中,聞けば聞くほど口の中が苦くなっていく感じがしました。また地震取材で京都大学に出張した折,少し繁華街(四条河原町)を歩いたのですが,その明るさ賑やかさは,計画停電下の東京から来た身にはまばゆいほどでした。

 

 この大震災の特集を仕上げるのに精根尽き果てたのですが,その次の5月25日発売号では,今度は福島第1原発事故がらみの特集を組むことになり,休む間もなく準備を始めた矢先のことでした。事故が起きたのは。

 

 昨年4月末,その日だけは休みをもらって,午後6時半頃だったか,自宅から少し離れた繁華街を自転車で走っていたときのことです。当時は福島第1原発事故からまだ日が浅く,街頭照明がかなり落とされていました。通り慣れたところだったのですが,それが仇となりました。道路脇から“半島”のように車道に延びた車止めのでっぱりが新しくできたことに暗くて気付かず,自転車は車止めで止まったのですが,私の身体が前方に飛び(慣性の法則ですね),道路に顔から激突したのです。眼鏡が折れて顔に刺さり,顔面血まみれ(私自身は気付かなかったのですが,周囲に集まった人たちからそう言われ,差し出されたタオルを顔に当てると,見る間に真っ赤に染まりました)。救急車で運ばれる事態になってしまいました。

 

 顔を打った衝撃か,頭がぼーっとして,当時のことはあまり記憶にないのですが,救急隊の人が私の顔を見て「こりゃあナートだ」と話していたのは覚えています(ナートは業界用語で「縫合する」ということだと後で知りました)。病院ではCTで頭を調べ,脳内出血のないことを確認。刺さった場所は,幸いにも目(左目)をぎりぎりで逸れ,10針以上ちくちくちくちく縫ってもらいました。縫っているお医者さんが「うーん,高度に破壊されているなあ。傷跡は残るよ」と話すのを聞きながら,「うーん,それは困ったなあ」と何か人ごとのようにぼんやり思ったこともよく覚えています。

 

 当時は原発事故の特集記事の取材と執筆を始めたばかりで,寝込むわけにもいかず,ぱんぱんに腫れ上がった顔面を半分近く覆う絆創膏姿のまま(顔面と同時に着地した左腕も絆創膏だらけ),5月の連休中もずっと出社したのですが,傷はズキズキ痛むは,傷口からは大量の浸出液が出て目に入るはで,夜中も度々目覚め,慢性的な寝不足状態。フラフラになりながら,まさしく悪夢のような原発事故の記事を仕上げました。

 

 原発事故への対応が一段落し,顔の傷もだいぶ癒えた頃,夏休みをとりました。ほんの数日でも震災や原発から遠く離れた場所に行こうと思い,紅海に面したアフリカ東部の港町などを旅しました。昼の気温が40℃を超える炎暑の世界だったのですが,そこで1人のドイツ人と知り合うことになりました。何度目かに会ったとき,彼は私の顔を見ると,にっこりして私の名前(Nakajima)を言おうとするのですが,なかなか口に出てきません。
 
 「うーん,なんていう名前だったかなあ」というような顔をしばらくしていたのですが,「うん,思い出した」というような顔になり,にっこり笑ってこう言いました。「Good morning! Mr. Fukushima!」 そのとき,炎暑にもかかわらず,急な寒気を覚えながら悟ったのです。アフリカの片隅でさえFukushimaという名前が人の口から出てくる,少し大げさに言えば,人類共通の記憶としてFukushimaが刻み込まれてしまったという現実に。

 

 年の暮れが近づいて,「迫る巨大地震」という特集を組むことにしました。東日本大震災の際は残念ながら後追いで特集を組みましたが,次の大地震や火山噴火が起きる前に,今わかっていることを,できるだけ早く,そうしたことが起きる前に,読者に伝えておきたいと思ったからです。

 

 そして年が改まり,これまで掲載した震災と原発事故関連の記事を再録した別冊『震災と原発』を出すことになりました。再録といっても福島第1原発事故については昨年5月に記事を出して以来,いろいろ物事がわかってきたので,そうした情報を盛り込む必要があります。昨年末に出た福島第1原発事故に関する政府の事故調査・検証委員会の中間報告などを踏まえて原発事故の特集記事を大幅に加筆修正することになりました。

 

 それで当時の記事を読み直して「悪夢のゴールデンウィーク」を思い出してしまったのですが,それにも増して悪夢だと思ったのは,政府事故調の中間報告につづられていた事故発生当初の現場の状況でした。大地震による大津波で浸水した福島第1原発では原子炉の緊急冷却装置が稼働したのですが,1号機については,実は津波襲来直後から緊急冷却装置が稼働せず,そのことを現場の発電所長らは8時間も察知していなかったというのです。その間に炉は空だき状態になり,炉心溶融が起きてしまったのでした。

 

 電気が止まり,情報網が寸断され,大きな余震が続く中,大混乱していた現場では,冷静な判断をするのが難しかったと言われれば,それはそうかとも思うのですが,そうした状況であっても的確に対応するのがプロフェッショナルではないかとも思うのです。現地対策本部と東京電力本店の対策本部はテレビ会議システムで常時結ばれ,情報が共有されていました。そうであるなら停電も,大きな余震も,徐々に強まる放射線の恐れもない東京電力本店にいる専門家が,なぜ混乱した現場に的確な指示を出せなかったのか・・・ 関係者全員がいわば悪い魔法にでもかけられたかのようです。1号機に続いて炉心溶融に陥った3号機,2号機についても「気付いたときには,もうアウト」といったような状況で,事故調の報告書を読み,記事を書いている自分も悪夢を見ているような気分になってしまったのでした。

 

 今回の原発事故を受け,国は原子力利用の基本的なあり方を再検討していますが,どのような方向に進むにしろ,既存の原子炉の安全性向上と福島第1原発周辺の環境回復,事故を起こした原子炉の廃炉,放射性廃棄物の処分などはいずれもきちんと行わなければならない話ですし,新設する場合は国民が納得する安全性を備えた原発でなければなりません。そうした問題を考える上で手がかりとなる記事も今回の別冊に再録しました。

 

 別冊には「超巨大噴火の脅威」と題した記事も再録しました。記事で紹介しているのは北米のケースなのですが,日本においても国土全体が灰に覆われるような超巨大噴火が何度も起きています。例えば九州の阿蘇カルデラを生み出した超巨大噴火では,1500km以上離れた北海道で厚さ10cmの降灰がありました。北海道でそうなのですから本州はもっと大変だったわけです。この超巨大噴火を起こす火山は九州南部と北海道に集中しており,過去12万年の間では18回,つまり単純計算で6700年に1回起きているのですが,直近に起きたのは7300年前ですから,そろそろ起きてもおかしくないと専門家はみています。「想定外」とされた東日本大震災は,数百年から1000年に1回のサイクルで起きる巨大地震が満期になって起きたわけですが,超巨大噴火など数千年間隔で起きる大災害についても視野に入れた方がよい時期に入っているのかもしれません。

 

 東日本大震災,福島第1原発事故の発生から1年。言わずもがなのことではありますが,もう2度とこのような悪夢を見ないように私たちは備えなくてはなりません。目元の傷のところは年末の頃だったか,かなりの間,痙攣が続いて気が重くなっていたのですが,最近はあまり起きなくなりました。(中島)