News Scan

胎児の細胞が母親の脳へ〜日経サイエンス2006年2月号より

損傷修復に一役買っている可能性がある
細胞移植による治療に発展するかも

 

 母親はわが子のことで頭がいっぱいだが,その脳のなかには文字通り,わが子が存在するようだ。母マウスの脳を調べたところ,胎児の細胞が入り込み,神経系の細胞に育っているとみられることがわかった。この現象はシンガポール国立大学のドー(Gavin S. Dawe)とシンガポール総合病院のシャオ(Zhi-Cheng Xiao)らが,脳卒中やアルツハイマー病などの治療法を探る研究のなかで発見した。
 胎児の細胞は母親の血液中に入り込むことがある。この事実は以前から知られており,人間では出産後27年以上も母親の体内に残る場合がある。胎児細胞は幹細胞のようにさまざまな種類の細胞に変化でき,傷ついた臓器の修復を助けているとも考えられる。

 

傷ついた部分に集中

 ドーらが全身に緑色蛍光タンパク質ができるよう遺伝子操作したオスのマウスを通常のメスと交配させたところ,母親の脳のなかに,緑色蛍光を示す胎児の細胞が発見された。「いくつかの脳領域では,脳細胞1,000個あたりの胎児由来の細胞が1個,ときには10個に達した例もある」とシャオはいう。
 これらの胎児細胞は,ニューロンやアストロサイト(ニューロンに栄養を供給する細胞),オリゴデンドロサイト(ニューロンの電気信号が漏れないように守っている細胞),マクロファージ(細菌や傷ついた細胞を食べる細胞)に似た細胞に変化した。さらに,マウスの脳を化学薬品で傷つけたところ,損傷部位には他に比べて約6倍の数の胎児細胞が集まった。脳がSOS信号として放出した分子に反応して集まったと考えられる。
 脳と血液系は「血液脳関門」という障壁で隔てられているが,胎児細胞がどうやってこれを通り抜けるのかは不明だ。脳の毛細血管壁の細胞は密に詰まっており,たいていの化合物はこの壁を通り抜けられない。胎児細胞が血管壁をすり抜けられるのは,細胞表面についているタンパク質や糖などの生体分子が血液脳関門と相互作用するからではないかとドーらは考えている。血液脳関門そのものは妊娠中のメスもその他のマウスも大きな違いはないので,胎児細胞はオスや妊娠していないメスの脳にも入り込めるはずだという。

 

静脈注射で細胞移植も

 Stem Cell誌オンライン版2005年8月10日号に掲載されたこの発見は,脳障害の治療に新たな希望をもたらした。血液脳関門が障壁となるため,脳への細胞移植にはドリルで頭蓋骨に穴を開ける必要があるとこれまでは考えられてきた。しかし,脳に入り込んで神経系細胞になる胎児細胞が持っている特有の分子を突き止めれば,臍帯血(さいたいけつ,へその緒に含まれる血液)などのなかに同様の細胞を探し出せるかもしれない。胎児以外の供給源が見つかれば,可能性は大きく広がる。
 こうした研究が進めば,静脈注射するだけで細胞を脳に送り込める非侵襲的な細胞移植が可能になるかもしれない。ただし,治療用の細胞は患者にできるだけ適合するものを選び,拒絶反応を避ける必要がある。また,注入された細胞が脳とは別の場所に定着してしまう恐れもあるが,「それが問題を引き起こすかどうかも,まだわからない」とドーはいう。
 研究チームは現在,ヒトでもマウスと同様に胎児細胞が脳に入り込むかどうかを調べている。男児を産んだ経験のある女性について,死後に解剖して脳組織を調べる予定だ。男性に特有のY染色体が見つかれば,ヒトでも同じことが起きている証拠になる。そうなると,「胎児細胞が母親の行動や心理に影響するのかどうか」という疑問も浮上してくるとシャオは指摘する。

サイト内の関連記事を読む