News Scan

世界一の悪臭物質が大変身〜日経サイエンス2007年3月号より

有用だが強烈な悪臭の嫌われものが快い香りに

 

 世界一の悪臭は何だろう。腐った魚?誰かが脱ぎ捨てた靴下?スカンクの一発?
 有機化学者によると,イソニトリルという窒素系有機化合物の右に出るものはない。『匂いの帝王』(C. バール著,邦訳は早川書房)の主人公にもなった嗅覚理論の第一人者トゥリン(Luca Turin)は「これは“匂いのゴジラ”だ。かいだとたんに胸が悪くなって内臓まで吐き戻しそうになる」と断言する。
 おまけにイソニトリルの出発原料は第一次世界大戦で使われた悪名高い毒ガスのホスゲンときている。イソニトリルが医薬品開発やポリマー製造に役立つという定評を得ているにもかかわらず,多くの研究者がこの不快で不安定な物質を避けてきたのは無理もない。
 ところが最近,カリフォルニア大学リバーサイド校の2人の研究者が“芳香イソニトリル”を合成した。悪臭を放つイソニトリルと同様の機能を持つだけでなく,より安全に合成できる。醤油や麦芽,古い木材,サクランボ,そして糖蜜キャンディーの香りがするものさえあると化学者のピアラング(Michael C. Pirrung)とポスドク研究生ゴライ(Subir Ghorai)は米国化学会誌に報告した。「用途が広いし簡単に作れるため,多くの人が利用すると思う」とピアラングはみる。

 

 

類まれなる特殊技能

 コーネル大学の有機化学者ゲイネム(Bruce Ganem)はイソニトリル分子が有機化学者にとって興味深い理由を「3つ以上の官能基(特徴的な反応性を示す原子集団)をつなぎ合わせられるからだ」と説明する。他の多くの物質は一度に2つの官能基までしか結合できない。イソニトリルのこの特殊能力はとりわけコンビナトリアルケミストリーに有用だとゲイネムは指摘する。
 コンビナトリアルケミストリーはさまざまな反応過程を組み合わせることによって,異なる化合物を短時間にたくさん合成する技術。医薬品開発では多くの化合物のなかから薬として有効なものを選び出す必要があり,この手法が欠かせない。「官能基を変えたものを混ぜて反応させ,新規化合物の大規模ライブラリーを作ったうえで,病気に対する有効性の有無によって選別する」とゲイネムはいう。
 理想的には,数種類の出発原料が反応して1つの化合物ができ,しかも原料化合物を構成する原子がほとんど漏れなく最終化合物に生かされるような単一の反応過程が好ましい。イソニトリルを利用すると通常とは違って“即席反応”が可能になり,2~3の化合物を混ぜ合わせるだけで後はイソニトリルが必要な反応を順序正しく進めてくれる。ゲイネムにいわせると「ドミノ倒しのように反応が進む」。「まず成分Aから官能基を解放し,これが反応して成分Bの別の官能基の解放を引き起こすといった具合で,それぞれが適切な反応相手の登場を待つ」。
 イソニトリルは「ウギ反応」と「パセリニ反応」という2つのよく知られた有機反応を可能にする。生体分子に似た分子を生じる反応で,できた分子はペプチド(ごく小さなタンパク質)と同様の化学結合を持つ。だから,最終的に得られた化合物は天然のペプチドに似た機能を備えていることが多い。

 

 

複素環式化合物を原料に

 ピアラングとゴライが新種のイソニトリルを発見したのは偶然だった。ピアラングは「イソニトリルを作る別の方法を文献で知った」という。ホスゲンを使わない方法だ。2人は代わりにオキサゾール(C3H3NO)とベンゾオキサゾール(C7H5NO)を用いた。これらはイソニトリルが開発された後も,長らく簡単には入手できなかった物質だ。これら環状化合物(詳しくは複素環式化合物という)では,窒素と酸素の間に位置する1個の水素原子が,他の水素原子に比べてずっと簡単に取り除ける。このため非常に強い有機塩基を用いると複素環が比較的容易に壊れる。これらの強い有機塩基も以前は入手できなかった。
 「イソニトリルをいくつか作った後,どんな匂いがするかをゴライに尋ねた」とピアラングは回想する。「悪くはないと聞いて,好奇心がそそられた」。2人はイソニトリルの変種をさらに合成,学生たちによるにわか仕立ての審査会ができ,変種の匂いはそれぞれ異なるものの比較的よい匂いだと評定した。
 ゲイネムは「よい香りの有効なイソニトリルができるなんて,びっくり仰天だ」と興奮気味だ。「まさに画期的で,コンビナトリアルケミストリー向けの有用な反応物質が続々とできてくるに違いない。とりわけ製薬産業の関心を集めることだろう」。数十年にわたって研究が疎んじられてきたイソニトリルだが,有機化学の重要な手段として可能性を発揮するときがついにやってきそうだ。