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たるんでいないか,バイオ実験室〜日経サイエンス2007年10月号より

 二重の気密ドア,使い捨て実験服,頻繁な汚染除去などの防護策にもかかわらず,米国のバイオ研究施設では感染事故が起こりうる。さらにまずいのは,そうした事故が報告されないことだ。実験中に感染した科学者がその病原体を一般社会にまき散らした例は米国では過去40年間確認されていないものの,今年5月に結核に感染したままヨーロッパに旅行したスピーカー(Andrew Speaker)の例からわかるように,多くの人がジェット機を利用する現代では命にかかわる感染症があっという間に世界に広まる恐れがある。
 事故報告規定そのものが弱いうえに,それも十分には守られていない。このせいで二次感染の危険が高まるとなれば最悪だ。実際,そうした二次感染が米国内ですでに起きてきたと考える科学者もいる。他国では,実験室で科学者が天然痘やSARS,マールブルグ熱,H1N1型インフルエンザウイルスに感染し,一般人に広がった例がある。

 

不注意でブルセラ症

 「研究機関は事故に伴う悪評を避けたがる」というのは,ピッツバーグ大学バイオセキュリティーセンターの免疫学者グロンバル(Gigi Kwik Gronvall)だ。多くはミスを隠し,ばれないようにする。
同センターが昨年夏に組織した生物安全性専門委員会によると,安全性確保の最高水準であるレベル4(BSL-4)の実験室で起きた事故は確かに報告されている。これらで研究されている感染症には完治法がなく,作業者は可能な限りあらゆる医療処置を望むからだ。しかしレベル3とレベル2の実験室に関しては報告はかなりお粗末だという。扱う病気の危険性が低く,感染に気づかない場合もある。
2006年2月,テキサスA&M大学で,十分な保護服を着用せずにレベル3実験室を掃除した学生がブルセラ症になった。米国ではまれな病気で,動物と人間のどちらにも感染する。治療しないと命にかかわる場合もあり,政府はブルセラ菌を生物テロ兵器になりうる「危険病原体」に分類している。その学生は感染に気づかず,発熱など風邪に似た症状を我慢しながら自宅で数週間休んだ。
大学の記録によると,この学生は2カ月後にかかりつけの医師からブルセラ症と診断され,その旨を大学に報告したが,大学が事故を公表したのはさらに1年後だ。生物兵器監視団体のサンシャインプロジェクトが,大学が自ら公表しないのなら自分たちが暴露すると圧力をかけた結果,ようやく明るみに出た。

 

うっかりミスで野兎病に

 研究者が勘違いして本来とは別の病原体を扱った結果,事故が起きた例もある。2004年5月,ボストン大学の研究者2人がレベル2実験室で野兎(やと)病に感染した。病原性のない無害化した菌だと勘違いして実験したためだ。大学当局によると,野兎病菌試料はすべてフードという囲いの中で扱うという規定を2人は破っており,これを守っていれば事故は起きなかったはずだという。2人とも風邪に似た症状が出た後に回復した。
 それだけならこの事故は気づかれずに終わったかもしれないが,2004年9月,3人目の研究者が同様の症状を示して入院した。間もなく同じ学部の教官たちが,3人とも野兎病に感染したのではないかと疑い,血液検査で確認された。大学は2004年11月まで事故を報告せず,一般に公表したのは2005年1月だ。
 ブルセラ症も野兎病も人から人へはうつらないので,一般人への感染はなかったと思われる。だが,報告がない以上,より感染しやすい菌で同様の事故が起きて部外者に感染した例があるのかないのか知りようがないし,すでに起こっていても不思議はない。
 ラトガーズ大学の生物学者エブライト(Richard Ebright)は「十分にありうる話だ」という。メリーランド大学の微生物学者バボイル(Patrick Bavoil)も,感染に気づかなければ研究者は一般人と接触するし,人から人へ感染する病原体は数多いので,「すでに何度も起きているに違いない」という。

 

危うく二次感染?

 一般人に病気を広めるところだったのが,2000年3月にメリーランド州にある米国陸軍感染症医学研究所で起きた事例だ。生物兵器に使える鼻疽菌(Burkholderia mallei)をレベル3実験室で扱っていた微生物学者が感染し,鼻疽(びそ)という病気にかかった。
 命を脅かすほどの病気だが,この研究者は発熱と腋下腺の腫れにもかかわらず6週間出勤し続け,病気を報告しなかった。結局は病院に担ぎ込まれ,人工呼吸器を装着。熱は40℃を超え,肝臓などに膿瘍ができていたが,鼻疽と診断されて治療を受け,回復した。彼が報告しなかったことについて,上官は医療プライバシー法を理由に処罰を拒んだ。

 

 

実効ある対策を求めて

 報告を求める連邦規制がほとんどなく,あってもその多くが履行されていないのが問題だと,サンシャインプロジェクトの米国事務所長ハモンド(Edward Hammond)はいう。大学が米国立衛生研究所(NIH)から研究助成金を得るにはすべての事故を報告しなければならないものの,報告を怠っても罰則はない。2006年の政府監査では,調査対象25大学のうち21大学が危険病原体の取扱規則を完全には守っていなかったが,処罰された大学はなかった。また,遺伝子組み換えに関連する事故は,研究者が「重大」と判断しない限りNIHに報告しなくてもよい。労働衛生安全庁への報告も,死者が出るか3人以上が入院しない限り,必要とはされていない。
 報告漏れをなくすには,レベル3と4の実験室で起きた事故とニアミスすべてについて連邦政府への報告を義務づける一方,一般には公表しないシステムがよいというのが,ピッツバーグ大学バイオセキュリティーセンターの見解だ。どんな種類の事故が起きやすいかを知ることによって,政府は再発防止策を指令できるだろう。
これに対しハモンドは,報告を公表しないと安全性に問題のある研究機関が「周辺地域社会に危険を隠し通すことになりかねない」と批判するが,グロンバルは「公表するとなれば誰も報告しないだろう」と反論する。

 

結核菌の旅
アトランタ在住の弁護士スピーカーは広範囲薬剤耐性の結核菌(XDR-TB)に感染したままトランスアトランティック航空の便に乗った。
1つの焦点は,彼の感染が実験室での感染事故が原因なのかどうかだった。彼の義父クックジー(Robert C. Cooksey)は米疾病対策センター(CDC)の微生物学者で,結核菌を研究している。
クックジーの供述によると,検査の結果,クックジー本人がXDR-TBに感染したことは一度もない。なので,スピーカーは病原菌を義父からうつされたはずはない。この春に公表された統計によると,米国内でXDR-TBの感染が,多くはないものの実際に起きている。1993~2006年の間に49人が感染し,うち23人は米国生まれの米国育ちだ。だから,スピーカーの感染とクックジーの仕事との関連は偶然の一致だろう。

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