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脳に潜むウイルス〜日経サイエンス2009年3月号より

ありふれたヘルペスウイルスが悪性脳腫瘍の原因なのか?

 

 

 近年,がんとウイルスの関連がますます注目を集めている。ヒトパピローマウイルスが子宮頸がんの原因だとわかったし,エプスタイン・バー・ウイルス(EBウイルス)は白血病との関連が示唆されている。
 さらに最近,多形性膠芽腫という悪性脳腫瘍(エドワード・ケネディ上院議員はこのがんの末期にある)に,ほぼ常に大量のサイトメガロウイルス(CMV)が存在していることが発見された。ごく一般的で通常は無害なヘルペスウイルスだ。脳腫瘍との関連の詳細はいまだに謎だが,これを糸口に新たな治療法を探る試みが始まっている。

 

腫瘍細胞だけでウイルスが増殖

 話の発端は1990年代末にさかのぼる。当時カリフォルニア大学サンフランシスコ校の神経外科医だったコブズ(Charles Cobbs)は,脳腫瘍と炎症の関連性について考え始めた。悪性腫瘍は異常な免疫活性を伴うことが多いが,その理由は何なのか。「炎症は何とはなしに突然生じるのか,それとも何かが炎症反応の引き金を引いているのか?」
 患者では免疫応答が誘発されているので,すぐに疑われたのは感染症だった。コブズらは22人の患者から採取した膠芽腫組織を調べ,そのすべてがサイトメガロウイルスを含んでいることを発見した。
 一般人の5人に4人はこのウイルスに感染しており,ウイルスを体内に生涯保持し続ける。通常は免疫系の働きによってサイトメガロウイルスは潜伏状態に保たれて増殖しないが,コブズは膠芽腫細胞では同ウイルスが活発に複製していることを発見した。近くの健康な細胞では,ウイルス複製は起きていない。「腫瘍細胞が感染しているのは明らかだった」とコブズはいう。発見は2002年にCancer Research誌に報告され,2007年にデューク大学の神経腫瘍学者ミッチェル(Duane Mitchell)によって確認された。
 だが,なぜ腫瘍細胞が感染しているのかは不明だった。サイトメガロウイルスはがんの原因なのか,それとも単に腫瘍細胞のなかで増殖しているだけなのか? 「ウイルスが先か腫瘍が先か。“卵かニワトリか”問題と同じだ」とミッチェルは指摘する。
 膠芽腫患者は免疫系が障害されるので,潜伏状態のサイトメガロウイルスが再び活性化するのかもしれないとミッチェルはいう。また,脳腫瘍細胞にサイトメガロウイルスが侵入しやすいので,よく見つかるのかもしれない。サイトメガロウイルスが細胞内に侵入するときには細胞表面にある受容体を“足場”にするが,2008年にNature誌にコブズが発表した研究によると,脳腫瘍細胞ではこの受容体が他のタイプの細胞よりも多い。 

 

ウイルスを目印に腫瘍を攻撃

 現在はサンフランシスコのカリフォルニア・パシフィック医学センター研究所に移ったコブズは,サイトメガロウイルスが腫瘍形成に積極的な役割を果たしているとみて,2008年5月のScience誌に発表された研究に注目する。異常な細胞成長(腫瘍の成長に不可欠な異常)を防ぐ働きをしている遺伝子の「スイッチを切る」タンパク質を,同ウイルスが作っていることを示した研究だ。このウイルスは「ブレーキを壊している」ようなものだと,論文を共著したウイスコンシン大学マディソン校の分子ウイルス学者カレジタ(Robert Kalejta)はいう。
 このほか,細胞の成長が異常になった際に細胞が“自殺”する能力を同ウイルスが妨げている可能性を示した研究もある。だが,サイトメガロウイルスに健康な細胞をがん化する力があることを示した研究はないと,カレジタはいう。つまり,同ウイルスはがんを引き起こすのに必要なツールをいくつか持っているものの,がんの原因であるという確証はない。
 しかし幸い,治療を考える場合には,サイトメガロウイルスと脳腫瘍の関連性を詳しく理解するには及ばない。関連性そのものが大切だ。新しいがん治療法に焦点を絞って研究しているミッチェルは「関連性の解明は関係ない。私たちは同ウイルスを,腫瘍細胞を追跡するための絶好の目印だと考えている」という。同ウイルスのタンパク質を認識できるよう免疫細胞を“訓練”し,それらの免疫細胞を利用してウイルスに感染した腫瘍細胞を見つけ出して死滅させた。
 ミッチェルらは現在,このがんワクチン(および別の免疫細胞を用いた第2弾)の臨床試験を行っている。結果はまだ公表していないものの,有望そうだという。コブズも「かたずをのんで結果を待っている。この種の腫瘍の治療を考えるうえで革新的な方法になりそうだ」と期待する。

 

清潔と悪性腫瘍の関係

 サイトメガロウイルスは約80%の人々に感染している。とすると,カリフォルニア・パシフィック医学センター研究所のコブズがいうように同ウイルスが多形性膠芽腫の原因なら,この脳腫瘍になる人がずっと少ないのはなぜだろうか? その疑問はヒトパピローマウイルスなど腫瘍の原因となる既知の病原体にも共通するとコブズはいう。「広く感染していても,がんになるのはほんの少しにすぎない」。
 膠芽腫患者の大半が裕福であることにコブズは気づいた。衛生状態のよい環境で育った人の場合,感染した潜伏状態のサイトメガロウイルスが腫瘍を引き起こしやすいのではないかと推測している。
 この考え方は「衛生仮説」による。先進国でアレルギー発症率が高い理由を説明するのに用いられている仮説で,幼少期に病原体と接触すると免疫系が教育されて適切に応答するが,“超清潔”な環境で育つと免疫系がきちんと成熟しないという見方だ。コブズによると,こうした人がサイトメガロウイルスに感染すると膠芽腫を発症するリスクが高まるのかもしれないという。ただしコブズ自身,これは単なる直感にすぎないと認めている。

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