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がんと戦うチップ〜日経サイエンス2009年7月号より

血中のわずかな腫瘍細胞をとらえて治療を最適化 

 

 がん治療は運任せの部分が多い。がん遺伝学の進歩にもかかわらず,医師が個別の患者について決断を下すための情報は限られ,治療の成否は神頼みに近い。
 これに対し,がん治療を患者に合わせて個別化できる有効な方法をマサチューセッツ総合病院の研究グループが発見したようだ。小さじ1杯分の患者の血液から腫瘍細胞を採取して分析できるオンチップラボの改良とテストを進めている。これによって,危険を伴う生検の必要がほぼなくなる。
 「治療戦略を合理的に決定できるようになるだろう」とボストンのバイオ・マイクロエレクトロメカニカルシステムズ・リソース・センターで同チップを開発したチームを率いるトナー(Mehmet Toner)はいう。トナーはエイズ患者のウイルスとT細胞の量を測定して投薬を最適に調節する方法になぞらえ,「がんでも同じことができる」という。 

 

循環腫瘍細胞をつかむ 

 多くのがんでは腫瘍から放出された悪性の細胞が血液中に入って体内に散り,新たな領域に付着してそこに転移する。この循環腫瘍細胞(CTC)は血液細胞に比べるとほんのわずかで,転移性がん患者でも血液細胞100万個につき1個に満たないことが多い。明らかな転移の見られない初期段階の局所的な腫瘍の場合はさらに少ない。このように循環腫瘍細胞はまれなのだが,これを使えば腫瘍の生物学的状態をリアルタイムで観察できる可能性がある。
 研究チームはわずかな循環腫瘍細胞をとらえるのに微小流体技術を使った。微量の流体や気体を解析するために25年ほど前から開発されてきた技術だ。他の微小流体装置と同様,研究チームが「CTCチップ」と呼ぶこの装置は,多数の微小な円柱をエッチング加循環腫瘍細胞をつかむ工したシリコンチップと,流体とチップを入れるチャンバー,空気式ポンプからなる。「マイクロポスト」と呼ばれるこの円柱は,細胞と化学物質を混ぜてくっつけ合わせ,評価するミニチュアの試験管となる。
 チップには7万8000本のマイクロポストがあり,精密に調整された吸引力に従って通常の血液がこの間をくねくね流れる間に,混合成分のなかから腫瘍細胞を捕まえる。上皮細胞接着分子(EpCAM)に対する抗体をマイクロポストにコーティングしてあるからだ。ほぼすべてのがん細胞は表面にEpCAMを持っており,EpCAMは細胞どうしの結合や信号伝達,移動を指令する重要な役割を果たしている。正常な血液細胞にはEpCAMがないので,がん細胞だけがマイクロポストの抗体にくっつく。
 Nature誌2007年12月20日号に報告された同チップの最初のテストでは,肺がん,前立腺がん,膵臓がん,乳がん,直腸がんの患者116人の血液試料が用いられ,1例を除きチップでがん細胞を単離できた。血液細胞10億個につきわずか1個のがん細胞でも検出できる。これに対し最も広く使われている従来法は大量の血液試料を抗体でコーティングした微小ビーズとともに培養する必要があるので,これに比べるとチップを使った方法の能力は少なくとも100倍以上だ。また,微小ビーズで捕らえた細胞に比べると,解析に適した状態のよい細胞が得られる。
 別の試験ではチップを使って27人の肺がん細胞を遺伝学的に評価し,結果をNew England Journal of Medicine誌2008年7月24日号に発表した。ほとんどの症例で循環腫瘍細胞に関連の遺伝子異常が見つかったほか,一部の患者では服用中のチロシンキナーゼ阻害薬に対する耐性を生む変異が起きていることを突き止めた。こうした遺伝子変異を確認するには,以前なら生検を何回も繰り返す必要があった。 

 

将来は定期健診ツールに

 「患者をモニターする能力が飛躍的に進歩した」というのは,テキサス大学M. D. アンダーソンがんセンターの胸部腫瘍学者ハープスト(Roy Herbst)だ。がん細胞の量と質を追跡する非侵襲的方法を提供するこのチップは,「患者に合わせた効果的な治療法を可能にする」という。
 トナーの共同研究者でマサチューセッツ総合病院・胸部がんセンター所長を務めるリンチ(Thomas Lynch)は,よりよい診断ツールが特に緊急に求められているのは肺がん向けだという(米国では毎年21万5000人が肺がんと診断されている)。肺がん患者の場合,ちょっとした生検でも失血や感染症,そしてまれではあるが肺虚脱(破損)のリスクがある。
 ハープストは今回の成果を大規模臨床試験と他の医療機関で確認する必要があると警告する。マサチューセッツ総合病院では現在,乳がんと卵巣がん,前立腺がんの患者を対象に,腫瘍成長と治療効果を同チップでどれだけうまく測定できるかを評価している。
 CTCチップは血中がん細胞を直接調べることによって,新たな治療標的を発見し,転移がいつどのように生じるかを明らかにするのに役立つ可能性がある。チップの有効性が大規模臨床試験で証明されたら,無限の可能性が開けるとトナーはみる。将来は,初期がん発見の検査ツールになり,「毎年の定期健診にも使われるだろう」。

 

個別化の利点

 患者による遺伝的な違いのためにがん治療が失敗することが多い。これに対し,個々の患者のがんの特徴に合わせた治療をあつらえて効果を高めようというのが個別化治療だ。
 例えば直腸がん患者は成長因子受容体に対する抗体を投与されることが多い。1カ月に約1万ドル近くかかるこの治療法は患者の寿命を延ばし状態がよくなる場合もあるが,腫瘍成長に重要なシグナル伝達タンパク質を作り出すK-rasという遺伝子が通常タイプである腫瘍にしか効かない。だから,この薬を処方する前に腫瘍のK-ras遺伝子が変異しているかどうかを調べれば,この薬が効く患者のみに薬を処方し,その他の患者が負う医療費と苦労,副作用の可能性を避けられる。

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