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そり犬の科学〜日経サイエンス2009年9月号

長距離を走り抜く犬には代謝の秘密が隠されている

 

 

 犬ぞりの先頭犬ラリーは,舌としっぽを激しく振りながらアラスカ州ノームのゴールラインを駆け抜けた。3月に開かれた「アイディタロッド犬ぞりレース」でラリーは1131マイル(約1820km)を走り,3年連続で優勝の栄冠を勝ち取った。ちょっと目には,ラリーは人なつこいが特徴のないやせこけた犬だ。だが,犬ぞりを操るマッシャーたちにとっては,言わずとしれた伝説的存在。そして科学者にとっては,生理学の謎を解くカギとなるかもしれない。
 そり犬には脂肪の燃焼の仕方を素早く切り替えるスイッチがあるようで,どこまでも疲れを知らずに走り続ける。この仕組みを解明すれば,糖尿病患者や肥満と戦う人など,人間にも貴重なヒントが得られるだろう。

 

糖から血中脂肪へスイッチ 

 代謝スイッチが発見されたのは2005年,そり犬の代謝系と消化器系,呼吸器系,血液系を研究しているオクラホマ州立大学のデイビス(Michael Davis)の研究チームがアラスカのレース犬訓練所で行った比較研究による。本物のレースを模して,1行程100マイル(約160km)のレースを4~5日連続で行った。100マイル走るごとに,犬の足からマッチ棒大の筋肉サンプル(約60mg)を採取し,タンパク質の量,酵素の活性,グリコーゲンを調べた。グリコーゲンはエネルギーを蓄えて素早く放出する糖の一種だ。
 このグリコーゲンが代謝スイッチに重要であることがわかった。レース最初の2~3日間,そり犬は筋細胞に蓄えたグリコーゲンからエネルギーを引き出した。だが,グリコーゲンが尽きて筋肉が疲弊する前に,グリコーゲンを節約する代謝へとスイッチが急に切り替わる。筋肉以外からエネルギーを引き出し始めるのだ。
 筋細胞が脂肪を血液から直接引き出し,何らかの形で細胞膜を通して細胞内に運び込んで,その脂肪を燃焼させているとデイビスはみる。レースの際には高脂肪の餌を与えるので,そり犬の血液中には脂肪がたまる。体重50ポンド(約23kg)の犬は1日約1万2000カロリーを消費する(通常はその60%を脂肪から,40%を炭水化物とタンパク質から得ている)。
 ミシガン州立大学の運動生理学者ジョー(Raymond Geor)によると,そり犬の筋細胞はミトコンドリア(細胞内のエネルギー生産装置)の密度が他の動物よりも高く,この脂肪をうまく使えるようにできている。だが,そもそも血中の脂肪が細胞にどうやって入るのかが謎だ。デイビスは脂肪がグルコースと同様の経路を通じて細胞に入り,この過程でインスリンが重要な役割を果たしていることを示す証拠が増えているという。現在,この経路を解明すべく,そり犬のインスリン感受性が調べられている。

 

遺伝と学習で獲得?

 代謝スイッチの発達にはおそらく品種改良が深く関係している。ラリーは代々続くレース犬の血筋だ。飼い主のマッケイ(Lance Mackey)は同じ犬チームで同じ年にアイディタロッドと「ユーコンクエスト」という2つの犬ぞりレースで優勝した唯一の伝説的マッシャーだが,「私の犬の血統は100年前にさかのぼる」という。「雑種なのだが,走るという目的のために交配されてきた」。
 ただし,選択交配がすべてではないだろう。集中的な訓練によって,必要なときに代謝戦略を切り替える方法を学習した可能性もある。もしそうなら,犬から学んだ結果を,持久力訓練をしている人や糖尿病や肥満の治療法を探している人に生かせるかもしれない。インスリン感受性を高める仕組みや,筋組織に蓄積された脂肪をうまく利用する方法を解明できれば,そうした患者たちの役に立つだろう。
 今年のアイディタロッドでマッケイは2位を8時間も引き離してゴールし,2位とのタイム差の最高記録を打ち立てた。しかし,ラリーにとって今回が最後のアイディタロッドになるだろう。9歳になるラリーは,うち8年間,レースに出続けてきた。今年末に正式に引退してご褒美の休息をとる予定だが,ラリーにしてみれば「まだまだ,休みなんていらないよ」というところかもしれない。

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