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消えやすく,生まれやすいもの〜日経サイエンス2010年1月号

量子もつれをぶち壊す環境が,それを修復することも可能

 

 電子になったらすてきじゃなかろうか? そうしたら,あなたも量子力学の裏ワザを使って,同時に2つの場所に存在できるだろう。忙しい現代生活を巧みにやり繰りするのに,とっても便利だ。残念ながら,物理学者たちは「量子力学が当てはまるのはミクロの世界だけだ」として,この楽しい空想を長らく否定してきた。
 だが,それは神話だ。過去10年の間に影響力を持つようになった新たな見方によると,日常生活で量子効果が見えないのは,あなたのサイズが大きいからではなく,量子効果そのものの複雑さによって量子効果がカモフラージュされているからだ。量子効果は目の前で生じており,適切な方法が見つかれば,実際に見ることができる。そして物理学者は,以前に考えていたよりも大きな世界に量子効果が現れることに気づくようになった。「量子効果の存続に関して,従来の考えは悲観的すぎたかもしれない」と,イリノイ大学のノーベル賞物理学者レゲット(Anthony Leggett)はいう。

 

おじゃま虫を追っ払うには…

 量子効果のなかでも最も特徴的なのが「量子もつれ」で,例えば2つの電子が空間と時間を超えて結びついて,テレパシーさながらのリンクを確立する。そして,電子だけではない。あなたも,どんなに離れようとも消えない量子の絆を恋人との間に維持できる。これがあまりにロマンチックに聞こえるなら,その裏返しとして,粒子は救いようのない浮気者で,出会った相手すべてと見境なく関係を結ぶことを付け加えておこう。この結果,あなたは道で出くわした失恋者すべてと,そして肌に触れた空気の分子すべてと量子もつれになる。そして,あなたが望む絆は,望んでもいない他の絆によって圧倒される。このように,量子もつれが量子もつれによってかき消されてしまうのが,「デコヒーレンス」と呼ばれる過程だ。
 量子もつれを量子コンピューターなどに利用するには,量子もつれを保存する必要がある。そのために物理学者は,親が10代のわが子の異性関係をコントロールしようとするのと同様,粒子を周囲の環境から分離したり粒子に付き添ったりして,望ましくない量子もつれを解消するためのあらゆる戦略を使う。そしてたいていは,たいしてうまくいかない。
 でも,環境に打ち勝つことができないなら,それを使えばよいのでは? 「環境はもっとプラスに作用しうる」と,シンガポール国立大学と英オックスフォード大学の物理学者ベドラル(Vlatko Vedral)はいう。

 

方法1:ダイナミック量子もつれ

 オーストリアのインスブルックにある量子光学・量子情報研究所に所属するカイ(Jianming Cai)およびブリーゲル(Hans J. Briegel),英ブリストル大学のポペスク(Sandu Popescu)が,あるアプローチを提案した。ピンセットのように開閉できるV字型の分子があるとしよう。分子が閉じているとき,先端にある2個の電子は量子もつれになる。そのまま放っておくと,周囲の環境にある粒子がぶつかって電子はいずれデコヒーレンスを起こし,先の量子もつれを回復するすべはなくなるだろう。
 解決策は意外にも,ここで分子ピンセットを開いて,電子を環境にさらし続けることにある。こうすると,デコヒーレンスによって電子はデフォルト状態,つまりエネルギーが最も低い状態へとリセットされる。再び分子を閉じると,電子は新たに量子もつれになって事実上の復旧が可能。もし十分に速く分子を開閉したら,量子もつれが壊れずにずっと存続しているのと同じようなものだ。
 研究チームはこれを,周囲から隔離している限り維持される通常の静的な量子もつれと区別して,「ダイナミック量子もつれ」と呼んでいる。ダイナミック量子もつれは振動しているにもかかわらず,静的な量子もつれで起こる現象はすべて起こせるという。

 

方法2:受動的な誤り訂正

 別のアプローチは,全体として1つのものとして振る舞う粒子集団を使う。粒子集団内部のダイナミクスのため,粒子集団は複数の平衡状態をデフォルトとして持ちうる。それぞれの平衡状態は異なる粒子配置に対応しているが,エネルギーはほぼ同程度だ。そして,個々の粒子の代わりに,こうした複数の平衡状態にデータを格納するような量子コンピューターが考えられる。
 この方法は当時ロシアのランダウ理論物理学研究所にいたキタエフ(Alexei Kitaev)が10年前に提案したもので,人間が積極的に粒子を管理する必要がないので「受動的な誤り訂正」と呼ばれている。粒子集団が平衡状態から外れると,周囲の環境がそれを押し戻すように働く。温度が高くなると周囲の環境が粒子集団を乱すようになるが,低温ならむしろ粒子集団を安定化させる。「環境はエラーを加えもするし除去もする」と,ポーランドのグダニスク大学のホロデッキ(Michal Horodecki)はいう。
 問題は,環境によるエラーの付加よりも除去が速く起こるようにすることだ。ホロデッキと,マサチューセッツ工科大学のボンバン(H_ctor Bomb_n)らは最近,そうした仕組みを考案したが,幾何学的な理由から,高次元空間が必要となる。これに対し,ふつうの空間で間に合わせるアイデアが最近,他のいくつかの論文で提案されている。高次元の幾何学に頼る代わりに,系に力の場を織り込んで,エラー除去へとバランスを傾ける。ただし,これらのシステムは一般的な計算は実行できないかもしれない。

 

生体のなかで

 この研究結果は,量子もつれが常識に反して,大きくて温かな系でも存続しうることを示している。例えば生体のなかでも存続しうるということだ。「生物学的システムで量子もつれが何らかの役割を果たしている,あるいは非常に重要な資源となっている──そうした可能性が開けてきた」と,カリフォルニア大学バークレー校のサロバール(Mohan Sarovar)はいう。サロバールは量子もつれが光合成を支援している可能性を最近発見した(「葉緑素の量子パワー」日経サイエンス2009年11月号NewsScan参照)。
 ベドラルとやはりシンガポール国立大学のリーパー(Elisabeth Rieper)らは,鳥が方位磁石として利用している可能性があるとされる磁気感受性分子のなかで,電子の量子もつれが標準的予測より10~100倍も長く保たれていることを発見した。私たちは電子ではないけれど,電子の素晴らしい量子特性を生物は利用可能というわけだ。

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