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ネット版ブルバキの実力〜日経サイエンス2010年6月号より

フィールズ賞数学者のブログをきっかけに,多数の知恵を集めた数学共同研究がスタート

 

 20世紀中ごろ,フランスの数学者ブルバキ(Nicolas Bourbaki)は百科全書的な著作『数学原論』によってあらゆる数学概念の基礎を集合論にさかのぼって求め,数学の見方を変えた。彼の数学思想と同様に,ブルバキ自身も抽象の世界にのみ存在した。ブルバキはパリの若き数学者グループの筆名だ。これに対し,ポリマス(D. H. J. Polymath)はさしずめインターネット時代のブルバキというところ。数学研究の新スタイル確立を目指すグループが名乗る筆名だ。
 ポリマスは,最も権威ある数学賞であるフィールズ賞を受賞した英ケンブリッジ大学のガウアーズ(Timothy Gowers)のブログで生まれた。彼はは2009年1月のブログ投稿のなかで,ネット上での自発的な共同研究によって数学の難問を解くことはできないだろうかと問いかけた。その作業を公開し,創造の過程を世間の人々から見えるようにできないだろうか?
 ウェブに基づく科学共同作業や,不特定多数の人にウェブを通じて業務を委託する「クラウドソーシング」はいまや一般的だが,今回の話はやや趣が異なる。一般的なオンライン共同研究では,参加科学者はそれぞれ部分的な研究を行い,それを通じて大きなプロジェクトに貢献するとガウアーズは指摘する。また場合によっては,バードウォッチャーやアマチュア天文家などの市民が集団としてかなりの貢献をすることもある。
 これに対し,「多数の下部作業に分割することがそもそも不可能な問題を解く場合はどうだろうか」というのが,ガウアーズの提起した問いだ。そうした問題を彼のブログの読者が解けるだろうか──単にコメントを投稿するだけで?

 

例題は「DHJ定理」の別証明

 最初の実験として,ガウアーズはいわゆる「DHJ定理」を選んだ。彼によると,この問題は「ひとり遊びの三目並べゲームをして負けるように試みること」に似ている。この定理は,三目並べの盤が多次元で十分に多くの次元を持つ場合には,しばらくすると三目が一直線に並ぶことを避けられなくなる,と述べる。どんなに負けようと頑張っても,必然的に勝ってしまう。
 この定理が正しいことは1991年に証明ずみなのだが,既存の証明はさまざまな高等数学の手段を使っている。ガウアーズは自身のブログの読者に対して,もっと基本的でやさしい証明を探すのを手伝ってくれるよう求めた。これは相当難しい問題だ。
 プロジェクトはガウアーズの期待よりもずっと速く進んだ。彼は6週間足らずのうちに答えを発表した。この証明を従来の論文にまとめるにはもっと時間がかかったが,それは主に議論が何百というコメントに散らばっていたためだ。そして昨年10月,研究グループはオンライン論文データベースのarxiv.orgに「D. H. J. Polymath」の名で論文を投稿した。イニシャルの「D. H. J」は問題そのものを指す。
 ただこの試み,別の意味では少々期待はずれだった。作業の大半を担ったのはわずか6人で,みなプロの数学者,しかもその分野で“おなじみ”の顔ぶれだったのだ。その1人は同じくフィールズ賞受賞者で熱心なブロガーでもあるカリフォルニア大学ロサンゼルス校のタオ(Terence Tao)だった。

 

知恵を集めて

 才能をプールできることには利点があるとガウアーズはいう。数学者が問題を解くとき,たいていは多くの試みが失敗する。いろいろな論理の道筋を試すのだが,何週間も何カ月も取り組んだ後に,ようやくそれが“袋小路”だと気づくこともある。そして,ある専門家が見込みありと思った論理の道筋も,別の専門家には明らかに無駄だとわかることがよくある。したがって,すべての試みを多くの人に見せたうえで他者からのフィードバックにさらすことによって,作業過程がはるかに速くなる可能性がある。
 タオは今回の経験を「大混乱」だったが楽しく,「従来の研究のやり方よりもハマる」と述べている。ガウアーズはその後,さらに数件のオンライン共同研究を立ち上げた。タオも同様だ。そして,プロの数学者ではない人たちが「実に役に立つ形で」貢献し始めているとガウアーズはいう。これらのハイアマチュアは教師や聖職者,数学のPh. D.を持ち現在はコンピューター業界で働いている人などだ。
 ただ,この方式がどれだけ広く通用するかははっきりしない。いくつかの難問には適しているかもしれないとタオはいう。例えば可能性のある手をしらみつぶしに計算することなしにチェスをうまくプレーするアルゴリズムの考案などだ。これに対し,有名な数学的予想の証明は不向きかもしれない。そうした問題は得てして長い歴史があり,専門家も論理の袋小路をすでにすべて把握しているからだ。
 数学における精神的・社会的過程を研究しているカリフォルニア大学サンディエゴ校の認知科学者ヌニェス(Rafael Núñez)は,数学の問題を解くという行為も人間活動の1つだという。数学者たちが黒板の前で一緒に作業するときは声や身振りなどで意思疎通しているが,オンラインの共同作業ではそうした微妙な手がかりは失われるかもしれない。しかし,人々が物事のやり方をネット世界に合わせて変えてきたように,数学者も新しいメディアに適応するだろうとヌニェスは指摘する。「オンラインで行うことは何であれ以前とは異なるものになる。数学に限ったことではない」。
 結局のところ,オープンな性質がこのプロジェクトの最も重要な特徴なのかもしれない。ガウアーズが自身のブログに書いたように,ポリマスは「出だしの失敗や袋小路などを含む数学の重要研究問題がどのように解かれたかを完全に記録した初の事例」かもしれない。
 あるいは,タオの言葉を借りれば「間抜けなやつがいかに生まれるか」を示したことに,このプロジェクトの価値があったのかもしれない。

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