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人工細菌は生命を知る道具〜日経サイエンス2010年10月号より

人工ゲノムで生きる細胞を作れるようになった,基礎研究に大きく役立つだろう

 

 今年3月末,人工的に合成された遺伝情報だけで生きている初の微生物がクレイグ・ベンター研究所(メリーランド州)の試験管内で増殖し始めた。ベンター(J. Craig Venter)らはマイコプラズマ・ミコイデス(Mycoplasma mycoides)という細菌のゲノムを人工的に合成した。この成果は人工生命創出への大きな一歩として大々的に報じられたが,遺伝子工学の技法が一段と精巧になったことを実証した意味も大きい。基本的な遺伝プロセスの解明につながり,バイオテクノロジーと医薬品開発に革命をもたらすと研究チームは期待している。

 

100万塩基対の合成ゲノム

 研究チームは核酸塩基(アデニン,シトシン,グアニン,チアミン)を人工的に組み合わせた短い反復をいろいろ作ってつなぎ合わせ,実際に機能するゲノムを作った。そして,最終的に作り上げた合成ゲノム(100万塩基対を少し超える長さだが,マイコプラズマ・ミコイデスの天然ゲノムよりは単純)をマイコプラズマ・カプリコルム(Mycoplasma capricolum)という細菌の細胞に導入した。
 するとM.カプリコルムの細胞機構が起動されてタンパク質を作り始め,細胞が分裂・増殖した。そして3日後には,M.ミコイデスの人工合成ゲノムによって生きているM.カプリコルムの青いコロニーができた。成果がScience誌オンライン版に公表された5月20日の記者会見で,ベンターは「コンピューターを親に持つ地球初の自己複製細胞だ」と述べた。
 ここまで来るのに約4000万ドルの資金と15年の歳月が費やされた(資金は主にベンターが運営する民間企業シンセティック・ジェノミクス社と米エネルギー省が出した)。そのほかにもいくつかの難題を克服する必要があった。例えば生命現象発現の妨げになっていたわずか1個の塩基を探すのに,3カ月もかけて配列をチェックしなければならなかった。
 「正確さが不可欠だ」とベンターはいう。「ゲノムのなかにはたった1つのエラーも許されない領域がいくつかある」。
 合成ゲノムには,この人工微生物(「M.ミコイデスJCVI-syn1.0」と命名された)を天然のものと見分けるための“透かし配列”が4つ含まれている。特別な遺伝暗号で,次の引用句を含む。小説家ジェイムズ・ジョイスによる「To live, to err, to fall, to triumph, and to recreate life out of life」,物理学者オッペンハイマーによる「see things not as they are but as they might be」,物理学者ファインマンによる「what I cannot build, I cannot understand」で,ベンターによると,研究成果の発表から2週間もたたないうちに26人の科学者がこの暗号を解読したそうだ。

 

ゲノムを作り替える秘訣

 合成生物学者たちは今回の成果を高く評価している。「小刻みな前進ではなく,一大進歩だ」というのは,ハーバード大学医学部の遺伝学者チャーチ(George M. Church)で,「だが,これで終わりというわけではない」と付け加える。
 スタンフォード大学の生物工学者エンディ(Drew Endy)は今回の成果を次のようにとらえている。「ぼろきれの山からネズミが生まれてきた,というような生命発生ではない。正しくは人間による生物の構築だ。情報からスタートして増殖する生物を作れるようになった。これでゲノムエンジニアリングに正面から挑戦できる」という。
 ベンターはこの技術を進展させ,ウイルス向けの新たなワクチンの合成に利用して,現在は数週間から数カ月かかっているワクチン製造を数日でできるようにしたいと考えている。また,さまざまな合成ゲノムを組み入れて,それがどのように機能するかを調べる「普遍的レシピエント細胞」を作るのが長期目標の1つだと,6月1日にコールド・スプリングハーバー研究所で開かれたシンポジウムで語った。いずれは,簡単な生物ならば育てるよりも作るほうが安くなるかもしれないと予想している。

 

基本原理に迫る手だて

 だが,今回の人工ゲノム創造は,生命の起源の謎を解いたことにはならない。100万塩基対を超える今回の細菌ゲノムの大半は,その機能が完全に理解されないままに合成されたものだ。
 とはいえ,複雑な組み立て玩具で遊んでいるうちに物理学や工学の基本法則が身につくように,全ゲノムを構築し,分解し,そして再構築することは,ゲノムの原理を明らかにするのに役立つだろう。例えばゲノム中で遺伝子が並んでいる順番にどんな機能や重要性があるのかは,まだ不明だ。遺伝子の順番が入れ替わっても目立った影響がほとんどない場合もあるが,特定の配列についてはゲノム上での位置が重要なのだろう。
 そうした基本的な謎を解くため,今回の論文の共著者の1人である同研究所の分子生物学者ギブソン(Daniel G. Gibson)は,生命を可能にする最も単純なゲノムを作ろうとしているという。「それによって,細胞内の全遺伝子の機能と,生命維持に必要とされる最も単純な形のDNAが明らかになってくるだろう」と説明する。そうした必要最少ゲノムの大きさは,今回作った細菌ゲノムの半分くらいだろうとギブソンは推測している。
 今回の初の人工細胞についていうと,注目を浴びる時期は当面のところ過ぎた。現在はベンター研究所の冷凍庫のなかで眠りについている。

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