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大学の実験室に潜む危険〜日経サイエンス2010年11月号より

米国の大学で事故が続発,安全管理に見直しを迫っている

 

 2008年12月下旬のある日の午後,カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で働く23歳の技官サンジ(Sheharbano “Sheri” Sangji)は白衣をまとわずトレーナー姿で,t-ブチルリチウムという液体を使って作業を始めた。この物質は空気に触れると自然発火するため,慎重な扱いが必要だ。しかし装置の不調でこの薬品が漏れ,サンジの服の合成繊維が燃え上がった。2人のポスドク研究員が炎を消そうとしたが,近くの緊急シャワーに連れていくのには失敗。救急隊が駆けつけたときにはすでに遅く,サンジは病院の集中治療室で18日後に死亡した。
 この悲劇は多くの学校に危険が潜んでいることを世間に知らしめた。「大学の研究室の大半は危険な場所だ」と安全性の専門家ランガーマン(Neal Langerman)はJournal of Chemical Health and Safety誌2009年5・6月号に書いている。そしてこの死亡事故は「間違いなく避けられた」という。
 サンジが勤務していた研究室の責任者である化学者ハーラン(Patrick Harran)とUCLA学長のブロック(Gene Block)はいずれも,サンジのケースを「悲惨な事故」と表現した。ブロックは声明のなかで「UCLAメンバー全員の安全を守るために全力を挙げて努力することを決意した」と述べた。他の大学も改革に乗り出し,安全手順を見直したとされる。
 だが,カリフォルニア州労働安全衛生部(Cal/OSHA)にとっては,この事故は単なる不運な出来事ではなかった。労働安全衛生部の調査で,適切な訓練と防護服の欠如など,重大な安全基準違反が明るみに出た。
 さらに,サンジの事故の1年以上前に学生が同様の事故で負傷しており,UCLAが必要な事故報告をしていなかったことも明らかになった。その事故後に改革がなされていれば,サンジの運命は違っていたかもしれない。労働安全衛生部はサンジの死亡事故に関してUCLAに3万2000ドル近い罰金を科した(UCLAは争わず)。

 

後絶たぬ大学での事故

 研究室での事故に絞った統計はないので,確実な数字はわからない。米国化学会の化学衛生安全部が「信頼できるデータ」をまとめているところだと,ランガーマンはいう。 
 だが研究室安全性研究所(マサチューセッツ州)所長のカウフマン(James Kaufman)によると,企業の研究室よりも大学など学術機関の研究室での事故がずっと多いことがわかっている。1997年以降,オハイオ州にあるクリーブランド州立大学の教授の感電死,ダートマス大学教授の有毒化学物質による中毒死,シカゴ大学教授の致死性病原体によると思われる感染死などの事故が起きている。さらに最近では,今年1月にテキサス工科大学の化学研究室で爆発事故が起き,大学院生が重体となった。
 爆発事故の直後,米国政府の調査機関である化学事故調査委員会の議長ブレスランド(John Bresland)は,学術機関の研究室を調べる初のチームをテキサス工科大学に送って大学での事故の系統的な調査を始める計画を発表した。テキサス工科大学の研究担当副学長エイミー(Taylor Eighmy)は声明のなかで調査に協力する姿勢を示し,「本学には優れたプログラムがあるが,今回の出来事を機会に安全教育を積極的に見直したい」と述べた。

 

「安全文化」を大学にも

 大学研究室の問題は管理責任にあるとランガーマンはいう。産業界では「毎年の監査に安全性の項目がある」のがふつうで,重大事故を起こすとキャリアに響く。これに対し多くの学術機関は「組織の上から下まで無関心で」,安全上の不備によってキャリアが傷つくことも多額の研究費に影響することもめったにないとカウフマンはいう。 
 「米国立衛生研究所(NIH)や全米科学財団(NSF)が研究費の助成に際して,研究責任者の安全管理・環境保全の記録を調べているだろうか?」とランガーマンは問う。「研究支援機関もそうした記録をチェックしているだろうか? 答えはノーだ」。さらに,労働安全に関する法律は雇用者が対象であって学生はカバーされず,国の基準は州の機関で働くサンジのような勤労者には及ばない。 
 産業界で培われてきたような「安全文化」が大学にも浸透すれば,そして全員が安全手順を知って実行するよう研究室トップが責任を負うようになれば,事態は変わるだろうとカウフマンは考えている。ブレスランドは化学事故調査委員会として勧告を作成する考えで,米国化学会や米国科学アカデミー化学技術委員会などでも安全についての関心が表明されたという。議会は「労働者保護法」の制定に動いており,成立すれば連邦の労働安全衛生局の保護が州の雇用者にまで広がる。
 過去には規制の見直しによって,連邦政府から研究費を得るには実験動物や被験者の保護が条件となった例などがある。同様の取り組みは,科学の現場で働く人々の安全確保に大きく寄与するだろう。

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